2007年05月14日

阿波守護細川氏と家臣三好氏(最終回)・・・小足


「応仁・文明の乱(1467 – 77)」は権門勢家の家督争いから始まり、天下を二分して東西両軍約20万の兵が京都を舞台に攻防を繰り返し、11年におよぶ大乱となった。この大乱で、寄り合い所帯の幕府の権勢は失墜し、有力な守護の多くも凋落していった。その領国では、守護代や在国武士(国人や地侍)の勢力が強まり、その地盤固めに発展して、群雄割拠の戦国時代へ突入していく。その典型を斯波氏の領国の越前(朝倉氏)・尾張(織田氏)・遠江(今川氏)にみることができる。

細川管領家も例に漏れず、その家督争いは泥試合・遺恨試合の様相を呈し、その最後は、家宰三好氏にとって代わられ、没落・滅亡したのであった。ところが、その三好党も分裂・抗争して、天下布武をとなえる織田信長のまえに、蹴散らされていったのであった。

本レポートは、阿波出身で、しかも中央政権の中枢で活躍した人物の細川氏と三好氏をPRすることであった。今回をもって、ひとまず完である。(歴史もののレポートを書くのも容易ではない、と痛感した。もっと歴史書を研究し、また文章の書き方も体得して、それから本格的な歴史レポートを書きたいと思っている。できれば、井沢元彦の『逆説に日本史』のような痛快な本を書きたいと思う。)

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(三好家の老残笑巌入道)
細川晴元 (1514 - 63)、三好長慶 (1523 - 64)、松永久秀 (1510 - 77)も歴史の舞台から消えていった。エピローグとして、笑巌入道(三好康長)という老人に触れておこう。

秀吉ときは1595年、太閤秀吉は、関白秀次 (1568 – 95) を高野山に追放し、切腹を命じた。享年28歳。その首級は三条河原にさらされ、子女や妻妾三十数人も京都三条河原で斬殺された。凄惨をきわめる事件であった。秀吉は、長男鶴丸が三歳で夭折(1591年)すると、もう実子はさずかるまいと観念してか、実姉(=とも)夫婦の子秀次を養子とし、関白位を譲って豊臣家の相続も約束した。ところが、淀殿に第二子(秀頼)が誕生(1593年)するや、子煩悩な父親となって、秀吉の態度は変節し、関白秀次の心も動揺していった。真偽はともあれ、その乱行や風評、あるいは陰謀説もあるようだが、関白秀次は切腹に追い込まれていった。
 
司馬遼太郎の『豊臣家の人々(中公文庫)』の第一話に、「殺生関白」が次のように紹介されている。――
関白秀次のもとの名は三好孫七郎秀次という。そのわけは、秀吉は卑賤からあがっただけに、一族を、たとえうそでも綺羅をかざらせる必要があったことが発端である。阿波の名族三好氏というのは一時は京を支配していたこともある巨族だが、いまは没落して、かろうじて笑巌入道という老人だけが生き残っている。盛んなころには三好山城守康長と称し、摂河泉三州に武威をふるい、信長に駆逐された。いまは老残の身を秀吉に寄せ、秀吉もこれを諸侯として礼遇し、御伽衆に加えている。この笑巌入道に、「入道、わぬしが姓を、わしに貸せ」と秀吉はいった。
笑巌は、秀吉の命であればきかないわけにはいかない。そこでついに、弥助夫婦(妻は秀吉の姉とも、のちに瑞竜院日秀)を養子名義にした。夫婦だけでなく夫婦が生んだ子も孫にし、そのうちの次兵衛という者を三好(康長)家のあととりとし、世襲名である孫七郎を名乗らせた。

三好孫七郎秀次≠ニいうのがのちの関白秀次である。孫七郎秀次は、元服すると河内で二万石の所領をもらい、以後、叔父の秀吉にともなわれ十代の半ばから合戦に参加した。以下、司馬氏の文は略すが、秀次は、のちに紀伊・四国平定で功をあげて、近江に43万石を与えられた。八幡山城主になって、近江中納言と呼ばれた。

(補追: 彼の不名誉な経歴を一つあげておく。秀吉が東海方面を制圧しようとして、家康と合戦になった1584年の「小牧・長久手の戦」では、秀次(17歳)は、池田恒興・森長可らとともに三河を陥れようとしたが、逆襲されて大敗を喫した。指揮を誤って家中に多数の死者を出したことで、秀吉から叱責された。この合戦が、家康のその威望をあらわす最大の履歴となり、天下の声望をあつめることになった。)

太閤秀吉が関白秀次に切腹を命じたとき、秀次の実父(弥助)は所領(尾張犬山10万石、のちに清洲城主)と官位(三位法印)をとりあげられ、もとの平人におとされて、讃岐に流された。生母(秀吉の姉)は得度し、法華宗門に入った。笑巌入道は、単なる名義貸しをしただけだったのか、その後のことはわからない。秀次が切腹したその三年後に、太閤秀吉は病死した(1598年)。さらに翌年には、秀頼の後見人であった前田利家が病没して、豊臣家の行く末に暗雲がただよいはじめた。(完)

(余録5 三好康長)
(『日本歴史人物辞典、朝日新聞社刊行』)
三好長秀の子で宗家を継いだ元長の弟。長慶の叔父にあたる。通称孫七郎。山城守。三人衆についで長慶に信任される。1562年、旧5月の河内教興寺戦で畠山高政の撃破に活躍。長慶の死後、高屋城主として、三人衆方の重臣となる。松永久秀が三人衆に反目すると、1565年、旧11月、飯盛山城攻め、堺攻めに参加。この働きで、足利義栄の(第14代)将軍任官が実現した。1567年、旧10月の大仏殿炎上により三好党は畿内の人心を失い、翌年9月、義昭を擁立した信長の上洛により三好政権は崩壊した。信長が岐阜に帰国していた折に、義昭を本圀寺に急襲したがはたさず、以後は石山本願寺の顕如(本願寺11世法主)とむすんでゲリラ戦に転じた。1574年、旧4月、顕如と呼応して高屋城に挙兵、善戦はしたが、信長に降る。信長の晩年には、織田信孝 (1558 - 83) のもとで四国攻めに参加。信長死後は、秀吉に接近して、三好秀次を養子に迎えた。1582年、旧9月、根来衆攻めに従う。晩年はキリシタンに帰依したとも伝えられる。(司馬遼太郎の『豊臣家の人々』に書かれているように、出家して笑巌入道と称したのかも知れない。).
posted by kikai39 at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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