2009年01月06日

小足の徳島青春日記(87回)

手紙いろいろ  
 
学生時代の想いでの記録といえば、日記と手紙がある。(もちろん写真もある。)日記は、自分が書き残した記録であるが、もらった手紙は、誰かが書いてくれた記録である。日記には偽りがあるかもしれないが、もらった手紙には、偽らざる自分の姿が描写されているだろうと思う。
日記のことについては、これまでに多数回にわたって記事にしてきたので、今回からのシリーズは、手紙のことについて書いてみることにした。 
私の大学時代は、親もとを離れて下宿生活をしていたので、手紙をやりとりした回数は多かった。しかし、もらった手紙の多くは、いつの間にか紛失してしまっている。それでも、いくつも残っている。いくつかの話題を拾い出して、箇条書き風に紹介する。―― 
 
● もうとっくの昔に他界した両親や数年前に癌で亡くなった弟からの手紙も残っている。外国航路の船員をしていた長兄からもらったメイルはたくさん残っていて、今では貴重な1960年代の海外だよりでもある。 
● 高校時代の級友とは、大学一、二年生のとき、手紙の交換を頻繁にしたのだが、どうしたことか一通の手紙も手もとに残っていない。 
● 大学四回生のときになって突然手紙が舞い込んできたのは、かってのクラスメイトの福岡君。病床から懺悔の手紙であった。思えば、でたらめな付合いだった。 
●(顔を合わせているときは手紙を出す必要もなかったが、)大学院に進むと、卒研恩師からはありがたい助言・忠言の返書をいただいた。恩師の助言通りに、私がやっていたら、違った人生を歩んでいたかもしれない。 
● 名大の大学院でがんばっていた小垣君からは、啓発される素晴らしい手紙をもらった。(返事を出さずじまいになったことが、日記に書きとめられていた。) 
● 就職した先輩からの近況報告、後輩からは、大学院の情報が欲しいという手紙があった。名前も住所もわからない女性(赤の他人)の手紙もあった。 
 
ラブレターはないが、当時の手紙を引っ張り出してきて読めば、青春時代が生々しくよみがえってくる。 
 
第一話  卒業アルバムに挟まれていた手紙  
昨年のことになるが、原田君が、卒業研究グループ別のクラスメイトの写真をプログで紹介してくれた。その写真は、卒業アルバムを各自が手作りするために配られたものであった。
私の持っているアルバムは、狭い倉庫の奥の棚に無造作に積まれていた。その中に、大学時代のが2冊あった。その一冊が手作りの卒業アルバムである。 
アルバムの最初のページは、四十数名のクラスメイト全員が並んだ写真が貼ってあった。場所は学生会館の庭のようだ。一人一人の顔をルーペで拡大して確かめる。(全員の顔と名前が一致するまでにかなり時間がかかった。)次をめくってみる。私の卒業研究グループの写真が貼られていた。恩師となる藤原先生は、まだ独身であったが、ダブルの背広を着て貫禄のある容姿である。後列に立つ自分といえば、はずかしながら、えらそうにふんぞり返っている。(想えば、恩師は、撮影の半年前に阪大から赴任してきたばかりだっだ。光陰矢のごとしで、恩師は昨年(2008年3月)他界した。) 
次々めくってみる。卒研グループ以外の写真は、各自の手持ち写真であるが、数枚しか貼ってない。物足りないアルバムだ。残りのページは全部空白。もっと熱意をもって作成しておくべきだった。残念だ。 
あれあれ 一枚の便せんに書かれた短い手紙が挟まれている。封筒はない。なんの手紙だろうと、読んでみる。 
        *** 
前略  
先日は写真をありがとう。 
おそくなりましたが、松浦君のと私(内田)のカメラで写した写真を一緒に送ります。  
前期の定期試験も近いと思いますが、夏休みボケして単位をおとさないようにして下さい。小倉は汚い町で全員コレラの予防注射です。 
高橋宗政殿によろしく。 グッドバイ 
     *** 
○ 驚いた。クラスメイトの高橋宗政君の名前が出てくるではないか。この手紙を、記憶をたどって解読すると、大学三年生(1962年夏)の学外実習のとき、長野県須坂市にある(現社名)富士通で一緒になった内田という大学生からだ。彼は広大工・電気科四年生だった、と思う。松浦君とは、彼の級友のことであろう。さて、高橋君の名前が、なぜこの手紙に登場するのかである。F社実習生は、一ヶ月寝食を共にした。内田兄から、「高橋君が徳大に行っているだろう」とかいう話しがあったのだろう。彼と高橋君の関係は、多分、高校時代の同級生であったのではないか、と思う。 (高橋君にあっては、内田兄のことはすぐわかるだろう。次の同窓会で、彼に会えば、確かめてみることにしよう。) 
内田兄は、期末試験はがんばりなさいよ、と励ましてくれてるのか、冷やかしているのか、なんだか彼の愛情を感じてしまう。 
  
○ つぎは、写真のことである。さっそく、もう一冊のアルバルをめくってみた。あった!他大学からの実習生仲間と志賀高原・白根山方面をトレッキングして遊んだ休日の写真が10枚ほど貼ってあった。案内標識のところで撮影した写真があったので、場所もはっきりしている。「上信越高原国立公園 志賀高原・丸池」とか、「万座望 標高1918m」と標示されている。 
内田君、杉浦君の顔もすぐわかった。九大の福江君もいた。ほかに岡大、京大、東工大生もいたが、名前は思い出せない。彼らは、F社に就職することが内定しての工場実習であった。F社は、NC工作機部門を分社化し、大型コンピュータのトップメーカになったが、その後の彼らは、どういう人生を歩んでいったのだろうか。三回生であった私は、就職とは関係なく自由な立場で実習することができたが、一ヶ月もの間、さわやかな信州の夏を過ごすことができたので、F社には感謝している。工場実習が終了すると、この機会を逃すまいと、長野県縦断の観光旅行をして、四国に帰ってきた。充実感のある夏期休暇を過ごした。 
 
○ 小倉は、二年生のときの北九州方面の工場見学で、行ったことがあるので知っている。でも、コレラの予防注射とは一体どういうことだろうか。これはただごとではない。当時の新聞を調べてみることにした。「真性コレラ発生で大騒ぎ」の新聞報道が出てきた(1962年8月3日)。―― 
昨春から東南アジアで猛威をふるったコレラが、最近フイリピンから台湾に飛び火。(厚生省は台湾バナナの輸入を禁止したが、)台湾から砂糖を積んで門司に入港した大阪商船の貨物船・御影丸(2731トン、船長ら乗組員38人)の船員17人が真性コレラと診断され、大騒ぎとなった。 
コレラ診断に二日要することから、防疫体制は後手にまわっていた。御影丸の乗組員30余人は、すでに、門司、小倉、下関、宇部などの飲食店、旅館などに立寄っていた。また乗組員のうち3人は、大阪、松江、佐世保の各家々に帰郷、ほかの一人は他の船に乗るために横浜に出向いた。保菌者17人と、乗組員と食事を共にした税関係員4名は隔離、他の乗組員は船に足止め。乗組員の立寄り先50数カ所の従業員も外出禁止。 
地元の門司市では、同夜までに全市民の6割にあたる9万人に緊急予防接種、3日からは引続き、北九州各市、下関を重点に、福岡、山口で130万人の予防接種を行う方針。関門周辺は遊泳と漁労禁止となった。

―― という内容のニュースであった。当時は気にもとめていなかったコレラ騒ぎ。今になって、その真実の詳細を知って驚き入るばかり。 
      * 
とにもかくにも、一枚の便せんの数行の文が、これほどにも精密、かつ鮮明に再現されようとは思いもしなかった。(つづく)
 
posted by kikai39 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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