2016年08月25日

アカガネサルハムシ・・・末光

昆虫で「銅」といえば、すぐに「ドウガネブイブイ」の名前が頭をよぎるのですが、残念ながら今年はほとんどお目にかからなかったし、撮った画像もないのでこれはパスします。その代わりとして「アカガネサルハムシ」に登場してもらいます。この昆虫については何年か前(調べてみたら2008年06月26日)に当ブログに投稿しているので、北京大会以来ということになります。まずは今年の画像から、一匹と二匹のものです。
猿葉虫@ 猿葉虫A
撮影日時 左:2016/05/23 8:50:48 右:06/08 16:42:00

「アカガネサルハムシ」と「銅」の関係については、もうお気づきの方もおられると思いますが、昔から金(こがね)・銀(しろがね)・銅(あかがね)・鉄(くろがね)と呼んでいたので、そこからの命名のようです。
それで思い出すのが次のことです。(これも小学校高学年のころ)鉄とか銅を集めて業者に買い取ってもらうのが、近所で流行ったことがありました。特に銅は高値で引き取ってもらえるので、電線とか真鍮とかを「アカ」と言いながら、集めていた時期がありました。当時は銅線の色が赤茶けた色をしていたので、そう思っていただけでしたが・・・。(いまから考えてみると、ちょうどそのころは朝鮮戦争だったと思い当ります)
それからもうひとつは、夏休みになれば戸外で遊び、日に当たって「赤銅色」になるのが健康に一番という時代でもあったのも、今は昔となってしまいました。(わが子が小学生のころまで、スーパーのイベントとして「クロンボ大会」はやっていました)
「銅」から「アカガネサルハムシ」の関連について話題は、このへんで切り上げ(「サルハムシ〈猿葉虫〉」については長くなるので省略)にします。撮り置きを見直していたら、三匹を撮った画像を見つけたのでそれも添付し、このシリーズを締めくくります。 猿葉虫B撮影日時 2016/06/11 8:18:09
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2016年08月21日

ギンヤンマ・・・末光

昆虫で「銀」と言えば、自分としては「ギンヤンマ」、これに代わるものは考えられません。ちょうど先日撮ったお誂え向きのものがありますので、それを添付します。 ギンヤンマ撮影日時 2016/08/02 8:56:37

ため池の土手を散歩していたら、下の田圃につづく斜面に生えた笹の葉蔭で、食事中の「ギンヤンマ」を見つけました。邪魔して逃げられたらと思い、接写はあきらめてワイドで撮ったものです。よくは見ていないのですが、どうも中型のトンボを捕食していたようです。これを見た人間は共食いとか、悪食というのでしょうが、これが「ギンヤンマ」にはあたりまえの生き方だと思います。(画像の個体は、腹部の空色と尾部先端の形状からして、オスの「ギンヤンマ」です)
この日も上天気で朝から日差しが強く、この「ギンヤンマ」も食事は緑陰でと、洒落込んだのでしょうか。せっかくの食事中なので、撮影後静かにその場を離れました。(因みに気象庁の「過去の気象データ検索」でチェックしたら、当地のアメダスの記録で、当日午前9時の気温は、28.7℃でした)

子供のころ(福山市在住当時)、夏の遊びで熱中したのがトンボとりとセミとりでした。なかでもトンボとりではこの「ギンヤンマ」のオスをとるのが一番の楽しみであり、そしてとるのにいろいろ工夫をしたものでした。そのひとつが、長さ1.5mくらいの木綿糸(白色)の端っこにメスの胸部をくくり、反対の端を細長い棒の先に結び付けて、オスがいるところでメスを飛ばしながら、棒の下部を持ってゆっくりと回します。するとオスはメスを見つけて、組み伏せて番いになろうと絡んできます。絡んだところで棒を静かに下ろして、テンゴ網か手でオスを捕まえていました。たしか小学校高学年まで、そんな遊びを夢中になってしていました。
時は過ぎ、たまに当時住んでいた近くを車で通ることがあると、往時を偲ぶ気もありつい見てみるのですが、田圃だったところはすべて病院・薬局・駐車場になり、生き物の宝庫だった川はコンクリートの用水路(排水路?)になっています。良いとか悪いとか、便利とか不便とか、文明とか文化とか、いま考えてみるとあっという間もことですが、いろんなことが在ったということです。「ギンヤンマ」の投稿でこんな話になるとは自分でも思っていませんでしたが・・・。

ところで肝心のなぜ「ギンヤンマ」なのか?、を忘れるところでした。実はこれを書きながらどこに「銀」があるのか知りもしないのに、「ギンヤンマ」だから「銀」としただけのことで、あわてて調べてみました。ネットで[ギンヤンマ名前の由来]で検索したら、画像付きでわかりやすく出ていました。それを自分流に記述すると次のようになります。(オスの腹部の空色が尾部の褐色へと代わる太さが変化する部分ですが、この部位を真横から見ると銀白色になっています。その色から「銀」の名前が付いたとのことです。当添付画像ではそこはハッキリ撮れていませんが・・・)
昆虫の「銀」をすぐ思いついたわりには、いろいろのことがつぎつぎと思い浮かび、長々となってしまいました。アシカラズ!次の「銅」はスッキリしたいと思っています。
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2016年08月19日

キンモンガ・・・末光

昆虫にも金・銀・銅の名前がついているものがあります。別に順位とかには関係なく、その個体のもつ色合いからの命名のようです。今年のこれまでの撮り置き画像の中から、それらをピックアップしてみます。
先ずは「金」からです。すぐに思い出すのが「キンモンガ」です。いままでに何度も見ているので、自分にとってはお馴染みの昆虫のひとつになっています。撮り置き画像を見ていたら、春に撮ったのと7月の終わりにも撮っていました。それぞれの画像を添付します。
金紋蛾@撮影日時 2016/04/29 8:48:14
金紋蛾A撮影日時 2016/07/26 8:48:11

どちらも接写で撮っているので、各々の紋様や色の微妙な差がよくわかると思います。蛾の多くは夜型ですが、この「キンモンガ」は昼飛性の蛾として知られているそうです。が、自分は昼間飛んでるのを見た記憶が、残念ながらないのですが・・・

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2016年08月16日

昭和の夏の風物詩 ―― 阿波踊り・・・小足

盆踊りは、全国津々浦々で行われている夏の風物詩。なかでも、阿波踊りは徳島の夏の一大イベントで、全国に知れわたるほど有名である。ネットをのぞいてみると、カラフルで、マスゲーム的な阿波踊りの写真が多数公開されている。
(昭和懐旧シリーズとして、昭和の話題をとりあげてきたことから、)この機会に、昭和の阿波踊りはどうだったのかを写真で鑑賞してみよう。
        *
(四国架橋もなかった)1961年(昭和41年)の夏の盆休み、連に加わって阿波踊りをしてきたときの写真である。ストロボを装着したカメラを首にぶら下げた姿で、踊りながら、時々撮影した。暗い夜の撮影だから、(デジカメのように簡単にはいかない。)ピンボケや露光不足や、じゃまものものが移りこむなどの失敗作が多数。唯一自慢できるのは、演舞場で、踊っている連の中で撮影したシーンであることだ。その中から、鑑賞に耐える写真を選び出してまとめた。(すでに公開した写真もあるが)、昭和の阿波踊りの風景を懐旧してもらえれば幸いである。

阿波踊りAO99.jpg



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2016年08月14日

昭和の風景――夕涼みに出歩く京都の女性・・・小足

大阪府下の夏の昼間、もっともむし暑くなる所は枚方市(府下の北東に位置する)だといわれている。(その原因は、東の生駒山系が壁になって、大気が滞留するためではないか、と聞かされた。)今夏は、在住する豊中市(府下の北に位置する)が暑い。(推測だが、猛暑にさらされた名神や中国高速道路などが蓄熱材の作用をしているのではないか、とおもう。)昼間のことはともかく、熱帯夜は寝苦しい。(冷房しなければ、夜中に熱中症や脳梗塞を発症しやしないかと心配過剰になる。)
        *
まがりや.jpg

今回は夕涼みの話題をとりあげる。添付したモノクロ写真は、昭和40年代前半(1960年代後半)に撮影したものであるが、京都のどこで撮ったのかを思い出せなかった。デジタル画像をズーミングしながら手がかりを探したところ、茶店の軒に垂れる暖簾に染め抜かれた文字は、「かざりや」「一文字屋」「あぶり餅」と解読できた。小文字のため不鮮明であったが、「本家」「根元」、「今宮」「銘菓」も認識できた。これらの情報をもとにして、ネットで調べてみると、下記のことがすぐわかった。

「あぶり餅」とは、京都市の名物菓子の一つで、きな粉をまぶした親指大の餅を竹串に刺し、炭火であぶったあと白味噌のタレをぬった餅菓子のこと。(京都市北区紫野今宮町の)今宮神社東門前の「かざりや」と「一文字屋(一和)」などで販売している。「かざりや」は、創業400年の老舗。築120年以上になる京町家の店構えで商売をしている。「一文字屋」は、「かざりや」の向かいにある店で、平安時代から続く(創業1000年の)日本最古の和菓子屋。

――ということがわかった。気になるのは、なぜ浴衣姿の女性を写すことができたのだろうか、である。
記憶というものは、きっかけがあると、不思議と甦ってくるものである。当日は、写真同好会の夏の特別行事として、講師と(京都市内にある)大徳寺とその近辺を散策して、風景と人物の撮影の指導を受けることを計画していたのだ。
添付写真(a)は、講師が引率してきた女性に通りを歩いてもらい、われら同好会のメンバーは、一文字屋の二階に待機していて、合図があれば、窓越しから撮影するというものだ。ぐずぐずしていると、シャッターチャンスを逃してしまうから機敏に撮影しなければならない。(いま思うに、このようなアングルからの撮影は、一般の人にはできないだろう。)
講師は京都人で、京都写真学校の教官をしていたから、顔が利いたようである。(大徳寺でも便宜をうけたことから、そのことがわかった。)

添付写真(b)は、つぎの場面で撮った写真で、同じ女性が一文字屋の床几に腰かけてくつろぎ、注文したあぶら餅のくるのを待っている一時である。

今宮東門前.jpg

当時の町並みを知りたくて、手持ちの資料を調べていたら、運よく、昭和51年11月発行の『朝日旅の百科・京都旅の地図帳』に、今宮神社東門前の門前風景写真が載っていた。添付写真(c)の中央奥に今宮神社東門、その門前の左側に「あぶりや」、右側に「一文字屋」の建物が見られる。印刷本用に網点化したサイズの小さな写真で、鮮明さに欠けるので修整したが、この写真を参照すると、撮影会で撮った一連の写真の撮影場所が特定できて、パズルを解くような快感をおぼえた。



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2016年08月13日

知らずに撮っていた「クマゼミ産卵」の様子・・・末光

8月4日の朝、わが家の木にクマゼミがとまっていました。そこは下手な剪定をして、木の先端が一部分枯れたところでした。見るとじっとしていたので気になり、せっかくの被写体なので撮っておいたのが下のものです。 熊蝉産卵@撮影日時 2016/08/04 6:36:11

それにしてもずっとじっとしてるのでよく見たら、尾部が上下に動いていたので、ひょっとして産卵でもするのではないかと思い、その様子も撮っておきました。ちょっと見づらいかと思いますがアップしておきます。
熊蝉産卵A 熊蝉産卵B
撮影日時 左:2016/08/04 6:42:34 右:08/04 6:42:42

朝の散歩から帰ってみたら、同じ所で先ほどとは逆向きになってじっとしていたので、これも気になり撮っておきました。 熊蝉産卵C撮影日時  2016/08/04 8:59:07

このあともどうしているのか見たら、すこし涼しそうな位置で当分とまっていましたが、そのうち居なくなっていました。以上、クマゼミの画像としてどうってことのないものですが、ここからが本題になります。
あれだけの時間同じところを離れず居たこと。そこが枯れた木の部分であったこと。それらがやはり気になるので YouTube で「クマゼミ産卵」を探してみました。その産卵の映像を見ていたら自分の不明を、思う存分知らされました。
木を見て森を見ずというか、森を見て木を見ずというか、その映像を見て正直ショックでした。昆虫のメスの産卵管というものを、全然分かっていなかったということに気づかされたからです。映像で見て産卵管があの位置にあり、あのような形状をしていると知ってしまったので、それが自分の画像ではどうなっているか、気になりました。恐る恐るですが撮り置き画像を覗いてみました。
撮った画像を再確認したら、なんと見事にそれが写っているではありませんか!!尾部のすこし前寄りに、黒い針のようなものが木に突き刺さっています。これがまさしくクマゼミの産卵管で、ちょうど産卵中のところをしっかりと撮っていたのでした。恥ずかしながら知らぬこととはいえ、我ながらなんとかうまく撮れていたのは、まあ運があったとしか言いようがありません。クマゼミさんには迷惑だったでしょうが、ありがとう!
ということで、添付画像をゆっくりとご覧いただき、滅多に見ることがない(と思う)産卵管が、しっかり枯れ木に入っている様子を確認してください。なお、セミが木の枯れた部位に産卵することは、何かで知っていたのですがその理由を知らなかったのでネットでみたら、次のことがわかりました。産みつけられた卵は次の年の梅雨のころに孵化し、か弱い幼虫は産卵管で作られた穴から出て行かなければならないそうです。枯れた木なら穴はそのままですが、生きた木の場合は傷だと思い、穴が木の治癒力でふさがれ、孵化した幼虫が出られなくなるからです。以上です。

虫撮りのおかげで、セミプロ級の投稿になったでしょうか?  「サッブ〜!!」
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2016年08月10日

「ヒゴタイ」と「ルリタマアザミ」・・・末光

わが家で毎年咲く花があります。今年も咲いたので撮っておいたのを添付します。 ヒゴタイ@撮影日時 2016/07/18 17:01:16 ヒゴタイA撮影日時  2016/07/18 17:01:34

実は名前もわからなかったこの花がわが家にもらわれて来る前、自分が何かで見た映像が妙に印象的だったので覚えていたのが、「ヒゴタイ」という変わった花の名前でした。その映像が頭に残っていて、この花がわが家で咲いたとき、これはあの「ヒゴタイ」だと思いました。それから毎年、咲くたびに今年もわが家の「ヒゴタイ」が咲いた、と喜んでいました。
それで「ヒゴタイ」についてもネットで調べては、熊本阿蘇に「ヒゴタイ公園」があるとか、広島県神石高原町の町花が「ヒゴタイ」であるとか、そんなことを知識として仕入れ、この花が咲くたびに、どこかの高原に行ったような気分を味わっていました。
それでこの花について当ブログに投稿しようと意気込んで、最後の確認作業に取りかかったら、「チョット待て!?」の事態が発生しました。それは以下のことです。
再確認で「ヒゴタイ」をネット検索したら、それまで気付かなかったのに、なぜか目にとまったのが「ルリタマアザミ」の画像でした。それは自分が「ヒゴタイ」だと思いこんでいた花に、見れば見るほど似通っていました。これは「ヒゴタイ」に思い入れが強すぎて、この言葉だけに気を取られてしまいまわりが見渡せず、いわゆる視野狭窄の状態になっていたのでしょう。それで念のため両方の花について見比べ、あらためて調べてみました。
結果はわが家で咲いていたのは、「ルリタマアザミ」という栽培用園芸品種だと同定しなければなりませんせんでした。よく考えてみれば絶滅危惧種でもある「ヒゴタイ」が、ほとんど手入れをしないわが家で、こうして毎年咲くこと自体がもともと可笑しかったのです。
ということで、この添付画像は幻の「ヒゴタイ」ということになってしまいました。立秋を過ぎて残暑どころか酷暑が続いている今日このごろですが、この画像で多少でも涼しさを感じてもらえればと思い、投稿しました。

ここからは例によって余談です。「ヒゴタイ」も「ルリタマアザミ」も葉にイガイガの棘があります。キク科のアザミの一種ではありますが、こうして球形になる花はあまりないそうで、珍しい花のひとつだそうです。なお漢字表記では、「ヒゴタイ」は「平江帯or肥後躰」の二様があり、「ルリタマアザミ」はそのままの「瑠璃玉薊」と出ていました。
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2016年08月07日

昭和の夏のレジャー ― 海水浴(遊泳)・・・小足

少年時代をすごした香川県の西部は瀬戸内海燧灘に面していて、実家のすぐ近くにあった浜辺や波止場は格好の遊び場であった。夏休みの午後は、毎日のごとく出かけた。遊び仲間も、おのずと集まってくるので、楽しさは倍化した。たまに襲来する台風で海が荒れると、することが見つからないほど退屈し、台風一過が待ち遠しくなるのであった。

海には干満がある。海岸は、潮が引くと遠浅の砂州と干潟が出現する。潮干狩をしてハマグリやアサリを採るのもよし、シオマネキとたわむれるのもよし。たまには、砂山を築き、池を掘って山水の庭をつくり、川を引いて干潟からをハゼなどの小魚を追い込んできて、山水の庭園を回遊させるのもよし。潮が満ちてくると、築いた砂山に立って、水没するまで防戦する。やがて、波に飲み込まれてすべてはなくなる。
砂州は広い。人数が多いと、運動会と称して、かけっこ、Sケン、(いわゆる)肉弾戦をやる。バットを用意してくれば、(軟式テニスのボールで)野球もした。
一方、波止場は、格好の魚釣り場であり、ベラやキスやチヌが釣れた。伝馬舟とよばれる小舟を(櫂で)漕ぎあやつる。(無料のボートあそびができた。)遊泳するのは、遠浅の海岸より、満潮の波止場の方がよい。プールのように、競泳や潜水ができるからである。

近くの有明浜には、公認の海水浴場もあった。シーズンには、海岸沿いに、茅ぶきの夏の家が建ち、脱衣場や貸し部屋、売店ができる。家族づれの大人なら、貸し部屋で潮風に吹かれながら会食するのもたのしいのではないか、と後年になっておもうわけであるが、少年のころのこと、かき氷が欲しくなるが、売店は割高だから、遊び仲間は辛抱して、帰り道にある店で食べるのだった。海水浴場はわれら少年の遊び場ではなかった。

海水浴4景.jpg

手持ちの写真のなかに、昭和30・40年に撮った遊泳中の写真があった。その中から、◆写真(a)は、(香川県)蔦島海水浴場の一コマである。花崗岩の砂であるから、海水は澄んでいて色もきれいである。島は、黒松と奇岩の景勝地で、釣りもできるしキャンプもできる。交通の便さえよければ、一級の海水浴場といえる。(現在のことはよく知らない。)

(大学時代の徳島のことは、またの機会にする。)大阪市には海水浴場はなかった。(沿岸は工業地帯になっていて、海水も汚れていた。)湾岸から少し離れた神戸の須磨海水浴場、泉南の浜寺海水浴場、琵琶湖では、近江舞子、青柳浜水泳場が有名であった。

◆写真(b)は、1970年ごろに撮った須磨海水浴場である。(望遠レンズで撮ったせいもあるが、)芋の子を洗うような混雑ぶりである。非常ににぎわっていたことがわかる。(脱衣のがご代が500円くらいしていたと思う。あまりに来場者が多くて、砂浜はゴミが汚れ散らかり、海水の透明度は落ち、大腸菌も増えていたとおもう。)
(私は大学二年の夏の1か月、神戸のゴム会社でアルバイトした体験がある。須磨にあった会社寮から神戸市内の工場に、山陽電鉄で通ったことで、須磨の松原や海浜は懐かしいが、ときは、(写真の背景から推測すると、)神戸沖に埋立地を造成中で、鶴甲山を切り崩しその土をベルココンベヤーで須磨沖に搬出していた。

高度成長とともに海水の汚染もすすみ、またウォタースライダーなどの遊興施設のある遊泳場に人気ができてきたことで、海水浴場もむかしのままではやっていけなくなった。

◆写真(c)と(d)は、琵琶湖の青柳浜水泳場で、わが事業所の若者グループがスイカ割りあそびを楽しんでいるひとときである。ときは、まだ湖西線のなかった(江若鉄道が廃線になったころの)昭和40年ごろである。(ことわっておくが、私も二十歳代である。)

このころは、リクレーション活動も盛んだった。行事を計画すると、若者はみなよく参加した。(私は、いわば写真撮影係になって、)近場の行楽地はほとんど行っただろう。それは若い男女交際の場でもあった。結果として、職場や社内結婚した若者が多数いた。


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2016年08月02日

今年もネムノキに青虫(尺取虫)・・・末光

今年も合歓の花が咲いてくれました。撮り置き画像を見てみると、咲き始めにデジカメに収めているのが6月6日のものでした。今年のはちょっと小ぶりで物足りない感じがしていましたが、梅雨をくぐりぬけた頃から本来の勢いをもりかえしたのか、いつもの合歓の花らしくなってきました。そんなとき撮っておいた同じ花を次の日に見たら、今年も小さな尺取型の青虫がいました。こんなか細い雄花の軸に、しがみついて生きている健気さを見ていると、「頑張れよ!」と声をかけてやりたくなります。
合歓木@ 合歓木A
撮影日時 左:2016/07/24 8:40:48 右:07/25 8:18:06

当地方での今年の梅雨は、入りが6月4日ごろで、明けが7月18日ごろでした。とすると合歓の花は梅雨入り前後から咲き始めるようです。結構長期にわたって次から次へと咲いてくれているようですが、もう終盤にさしかかって来ているところです。道路のすぐそばで咲いてくれるのもありがたく、花を眺めながらの散歩は気分がいいものです。
ということで梅雨のさなかの晴れ間の朝、木漏れ日となって合歓の花に降り注いでいたので、いい絵になるかと思い撮ったのが次の画像です。出来はイマイチですが、それらしい朝の雰囲気は味わってもらえるのではと思い、敢えて添付しました。 合歓木撮影日時 2016/07/01 8:16:50
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2016年08月01日

昭和の夏の風物詩――麦わら帽子・・・小足

リタイアーしたころから、頭のてっぺんが禿げてきたことを気にするようになって、外出するときは帽子を被るようになった。高齢者になったとはいえ、少々ファッションを気にして、服装やTPOに合わせていると、帽子の数も増えてきた。
(「熱中症に注意しましょう」と、毎日のように天気予報の放送があるが、クーラーかけて部屋にこもっていたのでは、体力や忍耐力もなくなるだろうとおもって、)時には、日よけの帽子(バケットハット)を被り、スポーツドリンクを持って、近くの土手や公園の原っぱに出かけ、草むしりをして汗をかいてくる。かって(昭和時代のころ)は、日射病にかからないように、麦わら帽子を被って出かけたものだ。(いまの都会のサラリーマンは、麦わら帽子を持っていない。つばの広い麦わら帽子となると、売れないのか、都会の店には置いてない。)
        *
麦わら帽子は、麦稈真田(ばっかんさなだ)を用いて作られるが(詳しくは付記を参照)、振り返ると、戦後の昭和20年代、祖母が麦稈真田を編んでいたことから、感慨深のものがある。小学生だったぼくは、見よう見まねで手伝ったことがある。時には、駄菓子を買う小遣いをくれた。祖母は、自由になるお金を、内職で稼いでいたのだ、とおもう。

麦稈真田は、家で簡単に作れ、わりと高値で売れたので、(高齢婦女の)副業や内職として魅力があったようだ。材料となる麦わらは、当時は田畑の裏作に麦を栽培していたので、麦わら資源の有効活用にもなった。この副業・内職は岡山・広島・兵庫県などの中国地方や、四国の香川県でも盛んだった。坂出市では、技術講習会も開催していたようである。(坂出市の郷土資料館には、麦稈真田や道具なども展示されているほどである。)

坂出市のホームページの「ぶんぶんレポ(坂出歴史文化講座の略)」の第11回講座、「〜讃岐三白を超えた?〜幻の特産品・麦稈真田」と題して、香川県郷土史家の谷本智氏が解説を行っている。その講座タイトルにおどろいたが、讃岐三白とは、特産物であった(塩田製の)塩・綿・砂糖のことである。塩と綿については、すでに話題としてとりあげたが、幻の特産品に麦稈真田があったことを再認識した、というわけだ。
        *
つばの広い麦わら帽子は、野良作業に被る帽子と思われるかもしれないが、漁業でも重宝な日よけ帽子であった。海では、紫外線がきつく、海面からの照り返しもあって、陸地よりも日焼けする。(かっては黒々と日焼けしたことを自慢していたが、今では一種のやけどで、皮膚がんになると恐れられる。)
添付した写真は、1968年の夏に撮影した瀬戸内海のイワシ漁の現場で、炎天下に網を手繰りあげているシーンである。つばの広い麦わら帽子が大いに利用されていたことがわかる。(昭和40年代ころになると、麦稈真田を副業・内職にする人はもういなかったとおもうが、その調達はどのようにしていたのだろうか。)

イワシ網.jpg

付記: 麦稈真田とは、麦わらの茎からつくったリボン状の素材を用いて、真田紐のように編み上げることから名付けられた合成用語である。
(「さなだ」とは、人気漫画や読み物の「真田十勇士」の真田であると教えられてわかったが、ここでいう真田とは、真田紐(真田織り)のことを略していっているが、その真田紐がどういうものかは知らなかった。)

麦わら帽子の材料には主に大麦の茎(麦稈)が使われた。麦稈の節を取り除くために、節と節の間を切り出す。(ジュースなどを吸うときに使うストロー≠つくる、とおもえばいい。)つぎに硫黄蒸気で蒸して漂白する。ストローを割って、ローラーがけして扁平にし、編みやすいリボン状の素材にする。麦稈真田の編み方には、3本で編む三平(さんぴら)、4本で(菱形模様に)編む四菱(しびし)などがある。編みあがってくる長い紐を枷(かせ)に巻きとり、規定長さ(約50m)になれば、枷からはずして束にすれば出来上がりである。(業者が、いくらで買い取ってくれたのかは知らない。)帽子は工場でつくられていて、その製造工程を見たことはないが、細長い麦稈真田を渦巻状にミシンで縫い合わせて円盤状にしてから作っているようである。


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2016年07月31日

緑色の目をした「アオメアブ(青目虻)」・・・末光

アブと名のつく虫もいろいろですが、この「アオメアブ」は人畜無害です。ただしこの美しい宝石のような目をもったアブは狩りの名手でもあり、草地の昆虫たちにとっては仲間とはいえ、恐ろしい手合いということになります。おなじ日の朝方、散歩のとき出会った二匹の画像をじっくりと見てください。
青目虻@ 青目虻A
撮影日時 左:2016/07/19 8:42:02 右:07/19 8:54:28

左の個体は、池の内法面の草にとまって獲物を待っているところでしょうか。写し方のせいで緑色の部分がすこしだけですが・・・。右のはクズの繁茂した法面で、獲物を捉えてその体液を頂いているところです。小さい獲物なのでわかりにくいですが、目の色についてはバッチリ撮れていると思います。

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2016年07月28日

はてなの青虫は「ウラギンシジミ」の幼虫だった・・・末光

散歩中、林縁のススキの葉の上に、ちょっと変わった形と色をした青虫がいたので、撮っておきました。それが下の画像です。 裏銀幼虫@ 撮影日時 2016/07/12 8:30:51

そのまま折り返し点まで行き、帰る時見たらまだ同じところにいたので、違う角度からも撮っておきました。それが次の画像です。この二画像があれば、初めて見た珍しい青虫について調べやすいだろうということで。 裏銀幼虫A 撮影日時 2016/07/12 8:45:38

これについてネットの「昆虫図鑑」の芋虫画像でチェックしたら、ナントあの越冬するチョウのひとつ「ウラギンシジミ(裏銀小灰蝶)」の幼虫でした。いまの季節、あの独特の飛び方をする成虫にはときたま出会うのですが、幼虫にこうして出会えて画像まで撮れたとは・・・。
それにしてもなんで林縁のススキの葉の上にこの幼虫がいたのか?「ウラギンシジミ」の幼虫の食草はマメ科のクズ・フジ・クララなどですが、自分の知るかぎりこの近くにそれらを見たことはありません。すこし上の高い所にクズか、フジがあるのかもしれませんが。クララは下の池の内法面にはあるが、この山にはないはずです。でもどこからかここへ来て、こうして見ることができたのでヨシとします。
ところで「ウラギンシジミ」について別のサイトを見ていたら、考えてもなかったことがわかってきました。画像を見たら二本の角があるので頭だと思っていましたが、そのサイトにはそれが尻尾の方であると解説してありました。そう言われてみると上の画像で二本の角がある傍に、たしかにフンのようなものが見えますので、それと納得できます。
そして下の画像をあらためて見ると、緑の地に白い模様が、頭の方から尻尾の方に向かって流れているの確認できます。なるほどこのサイトが教えてくれたことは間違いないと、ありがたくその説に脱帽した次第です。
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2016年07月27日

蘇る二十歳のぼく・・・小足

むかしの写真の修整に凝っている。前回は、自作の卒業アルバムの中から、大学構内のわがホームルームの写った写真をとりあげた。今回は、二十歳のころの写真に注目して、『徳島青春日記(第120回)』に添付した写真の修整をこころみた。(プログ掲載の日付は、2009年9月29日となっているから、もう7年も過ぎている。時の経つのは早いものである。)

(添付写真上)見ての通り、欠陥だらけの(印画紙)写真である。細線のカキ傷が多数あったので修整はむつかしいしと諦めていたが、今回、あえて修整をこころみた。自己流で、何回もやり直すなど、手間ひまかけて、ようやく添付写真下のレベルまで修整できた。

勉強部屋m33.jpg

●写真修整に凝っているのにはわけがある。
「二十歳のころ何をしてましたか?」とたずね、ヒアリングしてまとめた本がある。(『二十歳のこころ』(立花隆+東大教養学部立花隆ゼミ、ランダムハウス講談社、2008年)。
この本を読みながら、「二十歳のころ、自分は何をしていたのだろう?」と自問自答したことがあった。(平凡な人生をおくってきた自分が)今さらえらそうなことを言ってもはじまらない。信用されまい。しかし証拠となる当時の写真が残っていて、その写真について説明するのであれば、そういう心配はないだろう。(好都合な)写真を探そう。そういう意識を頭のかたすみにずっと持ち続けてきた。そして見つけたのが、この写真であった。ところが、写真の品質がよくない、欠陥だらけである。代替できる写真はほかにない。修整あるのみである。

●写真の出所(再記)―― 空き箱に乱雑に詰め込まれていた古い写真を混ぜ繰り返していたら、薄暗い勉強部屋で、ギターを弾いている自分の写真が見つかった。露光不足で画面全体が薄黒い。破って捨てていてもおかしくないのだが、印画紙一枚残しておいても邪魔になるわけでもなかろうと、空き箱に放り込んでいた、というのが本当のとこだろうか。
失敗した薄黒い写真とはいえ、自分の写った大学生時代(しかも二十歳ころ)の写真はほとんどないことから、今では貴重である。撮影年月は、大学一年の終った年度休みのとき(19歳5ヵ月)だとおもう。場所は、実家の勉強部屋である。撮してくれた人はわからない。 
(徳島では、下宿は4回も替わったのだが、(間借り)部屋の中でのひと時を写した写真は一枚もない。残念である。)

●「哀しい想い出につらなる一枚の写真」―― 人生には、哀しい想い出がいくつかある。その一つは、私が少年時代(から大学時代)を過ごした実家が全焼してなくなってしまったことだ。両親の形見分けもせずほったらかしにしていたことが悔やまれた。
(出張を終えて駆けつけたときは、実家は跡形もなくなっていた。明け方、火事に気がついて雨戸を開けたら、瞬く間に火の手があがってどうしようもなかった、という。通りに面していたこともあって、焼けた残骸は人目につく。警察の許しがでるや、親類や隣近所の応援をえて片付けた、というのであった。)私は呆然として更地に立ちすくんだ。実家で過ごした過去の想い出が、脳裏をかけめぐった。そのとき以来、実家と両親の思い出のよすがは、自分が持っていた数枚の写真だけとなったのであった。 
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2016年07月26日

セマダラコガネ(背斑黄金虫)・・・末光

7月となり甲虫がたくさん見られるようになりました。そんな時によく見かけるのに、名前を知らないのが次の画像の黄金虫でした。左はわが家の網戸に来ていました。右は林縁で見かけたものです。
背斑黄金虫@ 背斑黄金虫A
撮影日時 左:2016/07/05 6:36:23 右:07/06 8:51:04

名前は簡単にわかりました。名前がわかれば見ての通り「背中が斑模様の黄金虫」で、一度覚えたら忘れられないと言ってもいいくらいです。(いままで調べもしないでいた不勉強。反省!!)
画像でよくわかるのが、特徴のある触覚です。調べてわかったのですが、この櫛状の触覚をアンテナのように広げているのは雄です。雌の触覚はこんなに発達してないようです。この差はどうもヘェロモンを受容する必要から、雄だけに発達しているようです。
画像に出ている色合いの差は、セマダラコガネによくある個体差で、浅い茶色から黒っぽいのまで色々あるとのことです。
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2016年07月21日

今朝「アブラゼミ」の羽化直後に遭遇・・・末光

朝の散歩時、いつもの折り返し点で見たちょっと珍しい光景です。草の葉にセミの抜け殻だけでなく、何かくっついていました。それは羽化直後のセミの姿をしたものでした。さっそく全身の画像を撮りました。 熊蝉@撮影日時 2016/07/21 8:49:23

続いて撮りやすい位置から撮ったのが次のものです。
熊蝉A 熊蝉B
撮影日時 左:2016/07/21 8:49:54 右:07/21 8:50:41

通常セミの羽化は幼虫が夜に土中から出て、近くにあるものに登り羽化を始め、体液をその羽根にゆきわたらせて本来の体色になり、夜が明けて捕食者が来る前には飛び立って、抜け殻だけがそこに残っているものです。
それを思うとこのたびの遭遇は滅多にないものだと思い、急遽アップしました。朝撮りの画像をとくと見てください。
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2016年07月20日

「黄色の動くヒモ」を見ていて・・・末光

梅雨まっさかりの6月28日の朝、夜に降っていた雨もあがったので散歩に出かけました。中学校のコンクリブロックの法面がまだ濡れていましたが、いつものようにじっくりと見まわしていたら、なにか黄色の細いヒモのようなものが貼りついていました。こんなものはいままで見たことないし何だろう、と思っていたらそのヒモがゆっくり動いているのです。よく見たらそれはコウガイビル、それも「ミスジコウガイビル」じゃあ〜ないか!?、と思いました。
ところが位置的にちょうど法面の下のほうなので、屈みこんで撮るのに良い位置へその動くヒモが移動するのをじっと待っていました。すると背後の反対側歩道から「オトーオサン・オトーオサン!!」という声がしていました。まさか自分を呼ぶ人もいないだろうし、でも気になるので振り返ったら、顔見知りの地区の役員で元気印の女子(高齢)が、「あぁ〜、よかったぁ〜!」と言いながら笑顔で通り過ぎて行きました。どうも通りがかりに見えた挙動から、当方の体調がすぐれずしんどいので蹲って、休憩でもしていたのではないかと思って、声をかけてくださったのだと判りました。そうだよなぁ〜自分も、もうそういう風に見られる年代になったんだよなぁ〜、と思いつつ撮った画像を次にアップします。
三条笄蛭@撮影日時 2016/06/28 8:43:41

この動くヒモは右上から斜め下の中央に移動して、外周から少し凹んだ平面にきたところを撮りました。画像上部に凸凹して見えるのが斜面で、その長さは2~3cmです。それから類推してこの動くヒモの長さは(自分的には5~7cm)、どう見積もっても10cm未満のようです。変な言い方ですが自分が見たときは、“かわいい”と言うくらいの大きさだったのは確かです。
なんでこんなことを細かく記述するのか?と思われるでしょうが、実はこの動くヒモが、「ミスジコウガイビル」そのものなのか、それとも「オオミスジコウガイビル」の小さな子供なのか?そのどちらにも同定することができそうにないからです。
ネットで「ミスジコウガイビル」を検索しても、表示されるのはほとんどが「オオミスジコウガイビル」に関する事ばかり。画像検索では、これも「ミスジコウガイビル」そのものは見あたらず、「オオミスジコウガイビル」のあまり見ていたくもないものばかりです。そしてちょっとした理系なサイトでは、***現在「ミスジコウガイビル」は特定できないため、この和名は使用しないようです***という記述もありました。

こんなわけで自分が見かけた動くヒモが「コウガイビル」までは分かったのですが、同定は出来そうにありません。どうも諸般のことを考えると、残念ながら「オオミスジコウガイビル」の小さな子ども時代の個体、というのが正解のようです。
でもこうした色々と思い入れのある画像なので、この動くヒモの詳細を下に示します。トリミング後画像回転し、見易くしたつもりです。三本の条が確認できるし、真ん中の条は頭の先端まで突き抜けているのが、お分かりいただけるはずです。
三条笄蛭A

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2016年07月18日

自作の卒業アルバム・・・小足

6月は、フォトレタッチ用ソフトを使って写真の修整に熱中していた。(すでに、むかし撮影した銀塩フィルムのネガ画像や印画紙に焼き付けた写真は、スキャナーを通してパソコンに読み込み、ディスクに保存してある。)ディスプレーを見ながら、明暗やコントラストの補正、わずらわしいときは自動補正を使えばよいから、修整はいとも簡単である。(部屋で撮影した)露光不足の写真も救済できる。ズーミングやトリーミングも自由自在。多数の画像も、スライドショーで見流しながらチェックできる。
写真画像を拡大して細部を観察していると、背景に埋没していたものを新発見することもあって、興味がつきない。たとえば、街頭風景写真の観察では、車のナンバーやバスの行き先、看板や掲示板の文字が読み取れたりして、往時の情景がより正確に脳裏によみがえるのである。半面、ゴミやカキ傷がついていることを見つけて、気になるのであった。
        *
(私の「徳島青春日記」はまだ終わっていない。)ことのついでに、当時のキャンパスの写真をチェックしてみた。
われらの卒業アルバムは、専門業者に制作を依頼して作ったものではなく、各自の自作である。(ユニークというよりも、)お金を倹約したいという要望から決まったことである。アルバム(無地の台紙を綴った写真帳)を共同購入して、全員に配られた写真や各自が保有する写真を、思い思いに貼ってつくったものである。
全員に配られた写真とは、クラス全員が揃って写っている記念写真、各卒研の研究室で、教官も含めて勢ぞろいした写真と卒研生の勇姿を撮った写真である。(原田兄が、プログで紹介していたとおもう。)全員(40数名)に配るだけの枚数を暗室で焼きつけるとなると、手間ひまかかる。DPEに精通、熟練していない学生がやることだから、写真の品質はよくない。ほとんどすべての写真に修整すべき点があった。ということで、フォトレタッチ用ソフトの使い方の練習をした。

TDKcf.jpg

●写真(a)は、正門から構内を撮影したもの。(b)は修正後の画像である。左手に本館、その向こうに見える3階建てのビルは応用化学(工学)科。右手に機械科。中央奥に見える古い木造平屋建ては電気科。手前右に見える胸像の人物は、初代工学部部長であろうか。その向こうに見える木造建の二階が、わがクラスのホームルームであった。
この写真は、級友が撮ったものとおもわれるが、私がもらった写真は、不運にも、背景の右上端と左上端に明暗濃度の濃くなった致命的な欠陥があった。(印画紙の現像処理中の不注意で生じたカブレ≠ニおもわれる。)このカブレを取り除くために、背景の空の濃度を上端中央部の濃度に合わせることにして、ペイントブラシ(コマンド)で絵の具を塗るように掃引して修整した。右上端に見える植木の枝葉っぱのところは修正が面倒なので削除した。それでも、修整した写真であるとは気がつかないだろう。

TDKg2.jpg

●写真(c)と(d)は、『未来の礎』(徳島大学工学部・精密機械工学科創設25周年記念、1985年発行)に掲載されていた写真から引用したもの。写真(c)には正門が写っている。その説明文に、「1961年当時の工学部正門」と書かれていたが、われわれが卒業した1964年3月には、写真の右側に見える3階建てのビル(電気科?)はまだ建設されていなかったから、説明文は間違っている。多分、1965年すぎに撮影した写真であろう、とおもう。
 正門といえば、大学の伝統や風格、威厳を醸し出しているものでありたい。門構えという雰囲気が微塵も感じられないことが残念である。(蘇鉄と旧正門のところに、かっての正門の名残があったが、いかされていなかった。)

写真(d)は、1962年当時の工学部全景写真である。見開き2ページの航空写真を個別にスキャナーで取り込み、合成した。継ぎ目の不自然さが目につくが、懐旧気分で眺めるにはさほど気になるまい。(本をばらして、スキャンして合成すれば、継ぎ目を消すことはできるが、本が惜しいからそうしなかった。)参考までに、建物に名称を振った。以下、簡単にコメントする。

構内の建物にちぐはぐな感じがあったが、建物の一部は徳島空襲の被害をこうむったからのようであった。高度成長時代の理工系ブームのおかげで、建物・施設は、長期にわたって、拡充されていくのであったが、その始まりは1961年の精密機械科の新設であった、とおもう。
私のグループの卒研は精密機械科の新ビルで実施したが、1962年当時は、応用化学科のビルに対向した敷地に建設中であった。(卒研のことが一番思い出深いが、ここでは省略。)
写真を拡大してよく観察すると、入学試験を受けた講堂、昼食時ごったがえした旧食堂、裏門付近にあった小屋に散髪屋、キャンパス北側の道路沿いに、長い粗末な二階建ての建物も見られた。ここに、数学教室と教官室があった。学生みな、中間・期末試験で悩まされた。グライダー部があったのかどうかは知らないが、その1階にはグライダーの片割れがあった、ことを記憶している。

 TDK会報36.jpg

『徳島大学工業会会報』の「復刊5号、1960年8月1日発行」、「復刊6号、1961年8月1日発行」、「復刊8号、1962年7月20日発行」の表紙に、キャンパス全景の鳥瞰写真が飾られていた。会報の写真の質は、活版印刷時代の製版だから、新聞写真のように粗くて不鮮明であった。
航空写真は誰かれに撮れるものではない。原写真の出所は、海上自衛隊徳島航空隊基地提供と記されていた。電気電子工学科のホームページに、「復刊8号」の表紙を飾っていたものと同一の写真が載っていて、写真品質がよかったので、取り替えて引用した。

工学部の東隣の学芸学部のキャンパスも観察できる。プールやグランド、あるいは(左端中央部に写っている)図書館や学生会館の思い出はつきない。
(「復刊6号」の航空写真では、工学部グランド、はるか遠方の吉野川も観察できるが、写真の品質がわるく、またプログが長くなるので省いたが、在学当時のキャンパスと付近の風物が脳裏にありありと蘇る。)


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2016年07月15日

7月13日(水)の京都・山と鉾・・・末光

所用で急に京都へ行ってきました。用事は午前と午後なので、空いた時間帯に祇園祭の鉾・山を見る機会を得ました。それついてのすこし長めの報告です。
最初に用事が済んだ近くに、昔から一度は見てみてかった「蟷螂山(とうろうやま)」があったので、まずそれを画像に収めました。あいにくの天候で、見てのとおり肝心のところはブルーシートに覆われていて、カマキリの姿は目にすることができませんでした。その代わりイメージは、蟷螂山保存會の人のシャツで確認することができました。その二枚を添付します。(館内撮影は許可を得てしたことを申し添えておきます) @蟷螂山蟷螂山   撮影日時 2016/07/13 10:59:47 A蟷螂山スタッフTシャツ 撮影日時 2016/07/13 11:02:56

蟷螂山を見終えて目を転ずれば、すぐ近くに見える物があり近づいてみたら、名前が分からないが山建てが行われていました。それをとっていたら次に見えてきたのが鉾建てでした。これも近づいて撮っておきましたが何鉾かは分からずでした。その二画像を並べておきます。 Bはてなの山はてなの山建て 撮影日時 2016/07/13 11:04:57 Cはてなの鉾はてなの鉾建て   撮影日時  2016/07/13 11:07:29

次の山か鉾はと目をやると、見えたのが「船鉾(ふねほこ)」でした。まだ鉾建て中でしたが形は間違いようはなく、立派な大きなものでした。組み立てに釘を使わず木と縄だけで行う「縄がらみ」の技法ですが、その部分をこの船鉾で見かけたので撮っ ておきました。その二枚を続けて見てください。 D@船鉾船鉾 撮影日時 2016/07/13 11:12:08 DA船鉾の縄縄がらみ 撮影日時 2016/07/13 11:13:02

続いて見かけたので近づいていくと、「岩戸山(いわとやま)」でした。横をすり抜けるとき車輪が目の前に見え、新調した真新しい様子についシャッターを押しました。下にそれをアップしておきます。 E岩戸山岩戸山 撮影日時 2016/07/13 11:15:31 F岩戸山車輪車輪 撮影日時 2016/07/13 11:16:30

ここまで最初の蟷螂山以外は、事前のチェックなしの行き当たりばったりの町歩きで、ときたま小雨は降るし蒸し暑く一休みすることにしました。烏丸通の地下通路にすこし涼を求めてもぐり込み、すこし早目の昼食。
元気を取り戻し午後の予定までをどう過ごすか、地表に出てから考えようと階段を上がり出て見たら、目の前にあったのは「長刀鉾(なぎなたほこ)」でした。毎年祇園祭の先頭を行く長刀鉾にこうして出会えるとは!もう今日の見物もこれを見ることができたので大満足と言ってもいい気持ちでした。画像としてはイマイチですが、先端の長刀はちゃんと確認いただけると思います。 G@長刀鉾長刀鉾 撮影日時 2016/07/13 12:31:57

長刀鉾を後にしてぶらぶらしていたら、見えてきた鉾に寄って行くとそこには「函谷鉾(かんこほこ)」がありました。よく知らない鉾でしたが大きなもので何かしら得をしたような気分でした。最先端までうまく撮れているのですが、それが何を意味しているのか不勉強で申し訳ありません。 G函谷鉾函谷鉾 撮影日時 2016/07/13 12:36:06

つぎつぎと見える大きな鉾をめがけて行くと「月鉾(つきほこ)」がありました。この鉾の一番上には三日月の形が付いているはずなんですが、この画像ではその部分が欠けています。撮影の下手なところを見てやってください。 H月鉾月鉾 撮影日時 2016/07/13 12:40:50

そして長い町歩きを切り上げるべく巡り会ったのが「菊水鉾(きくすいほこ)」でした。狭い道路にこんな立派な鉾がと、そんな感じがしましたがすぐ近くに「菊水の井跡」という説明板があり、一応の納得をしました。(茶道では知る人ぞ知るらしい?)ひっそりとしているが、なにか落ち着いた雰囲気で気持ちが安らいだ気になりました。献灯に灯りが点いていたのでそんな気になったのかも。このたびの締めくくりの画像(二枚)です。 I菊水鉾@菊水鉾 撮影日時 2016/07/13 12:42:14 J菊水鉾A献灯 撮影日時 2016/07/13 12:43:15

たいへんな長編になってしまいました。変な部分もあるかと思いますが、祇園祭本番が間近いのですこし取り急ぎましたので了承ください。
これを書いていて学生時代某くんに誘われて行った、ある年の祇園祭の宵山か宵々山のことを懐かしく思い出しました。たいへん遅くなりましたが、その節はお世話になりました、ありがとうございました。
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2016年07月10日

大阪ミナミをぶらついてきた・・・小足

OSWindows 10=iWIN10 と略記)への無償アップデートの期限(7月29日)が近づいてきたので、WIN8搭載のパソコンにダウンロードした。そして、写真修整(レタッチ)ソフトで、いじくりまわしていたら、画面がフリーズして、まったく動かなくなってしまった。再起動して、すぐDelete<Lーを押して BIOSの表示をのぞいてみたら、ハードディスク(HDD)を認識していない。HDDのコントロール情報が壊れてしまっているようだ。これではOSが動くはずがない。マニュアル類を調べるのが煩わしいので、深入りするのはやめた。ほかに、WIN7とWIN10搭載のパソコンを持っていたからでもある。
(私のパソコンみな自作である。ソフトの関係で、3台を動かしているが、筐体からばらして、ダンボール箱にしまい込んであるパソコンも何台かある。当初のDOS6・WIN3.1から、WIN95、WIN98、XP、WIN7,Vista で動かすことができる。)
高速化のため、ハードディスクのデータ伝送方式が、並列型(パラレルATA)から直列型(シリアルATA)に代わってきたが、行きがかり上、混合して使っていると、トラブった時の管理がややこしいのである。SATAに統一することにして、難波日本橋へ階に行くことにした。

土曜日(7月9日)には天気がわるくなるという予報だったので、前日の金曜日に買いに行ってきた。中古のHDD(シリアルATA)だけど、250GBのものを1480円でバーゲンしている店があったので、3個買った。(HDDの情報をチェックしてみたら、中古といえども品質はわるいものではなかった。)

ついでに界隈をぶらついてきた。難波グランド花月(よしもと新喜劇会場)前に、かってジュンク堂書店があったが、こんな歓楽街にあって書籍が売れるのだろうか、といぶかっていたが、7月下旬に、(ドラッグストアの)ドンキホーテが新装開店することを、貼ってあったビラで知った。さもありなんとおもった。ミナミの歓楽街には、いやはや、外国、とくに(東南)アジア方面からの観光客が多いのである。道具屋筋商店街を抜けて、でんでんタウンの日本橋界隈へと行く。ここも様変わりがはげしい。いわゆる外食店がいやにふえている。ホテルもない東の方へ行く外国人が多数いたので、どこへいくのだろうかと、後を追ってみたら、高層のマンションの玄関に入って行った。部屋貸ししている業者や民間人がいるのだろうと推測した。(多分、ホテルよりは安価で、また気楽であろうから、アジアからの観光客の多数はこんなところに宿泊しているのだろう。)

ついでに、黒門市場をぶらついてみた。かっては、主に海産物の小売店のならぶ通りであったが、いまや祭りの門前市さながら、道路も店も観光客でおしあいへしあいの超人気である。マグロのさしみ、牛肉の鉄板焼き、・・・などを店先や店内で食べる人、ひとである。たこ焼きを食べ歩きするアベック、自撮りする人、ひとであふれている。

7月8日の毎日新聞に、2015年の関西の観光地の訪日外国人数(推定値)が発表されていた。
「外国人 ミナミ大好き」の大見出しのもと、「関西トップ588万人、利便性高く」とあった。添付の表から大阪市の観光地を抽出すると、(1)難波・心斎橋(588万人)、(2)梅田・大阪駅(497万人)、(4)大阪城(383万人)、(7)USJ(232万人)、(11)あべの・天王寺(156万人)、(13)通天閣・新世界(128万人)、(16)海遊館・天保山(88万人)とあった。

2015年の訪日外国人総数は1973万人だから、難波・心斎橋はその3割を占めているということになる。大阪の庶民文化・文明と歓楽の人気は、2020年のオリピックまでは続くだろう。その5年後は、大阪万博(EXPO)を開催することができれば、「夢よ再び」である。

何かにつけ取り残された感のある四国は、どうなっているのだろうかとおもいやった。徳島は「VS東京」を宣戦布告したが、東京でなく大阪を見習うべきではないのか。客を呼び込めるものをつくらなければだめだろう。

ミナミ大好き.jpg



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2016年07月08日

魚屋のキャッチコピーから・・・末光

新しい店ができて真新しい大きな看板に、店の名前とキャッチコピーと思われる NO FISH NO LIFE とが書いてありました。さすが魚屋さんらしいキャッチコピーだが、誰が考えたのだろう、なかなかいいセンスだよなと思いながら見て歩いてから、もう一年が過ぎました。
そのあいだに何回見ても、やはり気になるこのキャッチコピーでした。たしかに日本人にとって魚は、身近で大切なタンパク源であるわけですし、つい肉類に向かいそうな傾向に歯止めをかける意味においても、これからの魚屋さんにはピッタシだし、と見るたびにそう思っていました。
今年の4月ですが、図書館から借りてある本を読んでいたら、内容にはあまり関係のない息抜きページのところで、あるキャンペーン標語に出くわしました。それはタワーレコードの"NO MUSIC, NO LIFE."というものでした。自分はそういう方面には疎く寡聞にして知り得なかったのですが、なるほどそういう標語が元々あったのかと了解しました。
ということでその後ネットでチェックしてみたら、 NO ○○ NO LIFE の ○○ に、いろんな語句を当てはめた言い回しが、非常にたくさんあることを知りました。自分にとって ○○ に入れるとすれば何になるだろうと考えてみました。いろいろあって困るのですが、今回はこんなことを教えてくれた本に因んで、ちょっと気障ですが NO BOOK NO LIFE にしておきます。

参考までにその本は、印南 敦史 著 『遅読家のための読書術』 ダイヤモンド社 です。

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2016年07月05日

ベニヘリコケガとサラサリンガ・・・末光

両方とも蛾の名前です。先日撮った画像の中から、蛾のイメージを一新できるかも知れない!?、と思っての投稿です。はじめにその美しい色と模様をとくとご覧ください。。
ベニヘリコケガ サラサリンガ
撮影日時 左:2016/06/13 8:49:32 右:06/15 16:32:56

左側の「ベニヘリコケガ」ですが、これは中学校のコンクリブロックの法面にいました。目立つ色なので撮っておき、調べに調べてなんとか「ベニヘリコケガ」と同定することができました。
それにしても「ベニヘリ」とは、紅色をした縁取りになっているので、「紅縁」だと理解できるのですが、「コケガ」がピンときません。あれこれ検索したら、幼虫が地衣類を食べるとあり、地衣類が分からないのでチェックしたら、これはややこしいのでパスして・・・。とにかくわかったのが地衣類は苔と紛らわしいところがあり、地衣類の名に「○○ゴケ」と付いているのが多いので、そういうことから「コケガ」は「苔蛾」だとわかりました。

右側の「サラサリンガ」は何年か前に一回見かけて調べたことがあり、その時ネットの記述で見た [歌舞伎役者の隈取] という表現が妙にピッタリで、それが思い出されました。それを今回は、散歩の折り返し点の草の葉で見つけました。いちめん緑の中にやはり目立っていたのですぐそれと気づきました。
名前の「サラサリンガ」ですが、「サラサ」はまあすぐに「更紗」とわかりました。でも「リンガ」がどういうことなのか結局わからずじまいでしたが、漢字で「実蛾」と表記するのは確認が採れたのですが・・・。それにしてもどうしてこれを「リンガ」と読ませるのか?、でもこれはもう深追いせず、疑問のままにしておくことにしました。いつかなにかの機会にこの答えが見つかるかもしれません。見つからなかったらそれまでと思うことにしています。
以上、「ベニヘリコケガ(紅縁苔蛾)」と「サラサリンガ(更紗実蛾)」についての、自分なりの蘊蓄でした。
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2016年07月03日

地方がさびれ、大都市はにぎわう・・・小足

閑話である。リタイアーしたら、田舎に転居してのんびり暮らしをしたいとおもっていた。でも、田舎の生活は、刺激が少なくてさびしい。夜は早くて暗い。家にこもってテレビでも見るのがいいところ(?)。いま都会に住んで、(昼間のことは割愛するが、)毎夜、散歩をかねて、(にぎわっている)センター街をうろつき、9時に帰宅してから夕食である。片付けしながらBSテレビを見て、11時ごろからパソコンをいじって、12時ごろに寝床に入る。
        *
地震の予知はむつかしいようだが、人口の推定については、5年先、10年先、あるいは数十年先の推定も高い確度でできるようである。

国立社会保障・人口問題研究所が、2013年3月にまとめた将来推計人口のデータによれば、日本の人口は、◇2010(平成22)年10月(国勢調査)の1億2806万人をもとにして、 
◇2030年には、(1144万人減少して)1億1662万人、
◇2040年は1億728万人(2078万人減少)、 
◇32年後の2048年には1億人を割って、9913万人、 
◇2060年には(4132万人減少して)8674万人、65歳以上の人口の割合は39.9%
になる、と推定されている。

 付記: 日本の人口はおよそ1億2千万人、その1%は120万人となるが、その値は、年間出生数、死亡数にコンパラブルであることなどをおぼえておくと、理解しやすい。参考までに、2010年の年間出生数と死亡数を資料(厚労省発表)から転記する。
出生数  1,071,034 人 (前年比 −999人)
死亡数  1,197,012 人 (前年比 +55,147人)
減少数   125,978 人 (前年比  54,148人増)
われら学生時代の1960年の出生数は約160万人、生まれた年の1941年は220万人を超えていた。われらの世代は、人口は減ったほうがいいと思っていた。(激)減の弊害などあるとおもわなかった。)

当研究所の将来推計人口のデータをもとに、日本創成会議の人口減少問題検討分科会(座長・増田寛也、元総務相)は、「2040(平成52)年に、若年女性の流出により全国の896市区町村が消滅しかねない危機に直面する」と、試算結果を発表した(2014年5月8日)。

最近の都市間の人口移動の状況を加味して、2040年の20〜30代の女性の数を試算。その結果、2010年と比較して、若年女性が半分以下に減る自治体(消滅可能性都市)は全国の49・8%に当たる896市区町村に上った。このうち523市町村は2040年に人口が1万人を切る。地域崩壊や自治体運営が行き詰まる懸念があるとして、魅力ある地方の拠点都市づくりなどを提言し、早期の対策をとるよう政府に求めた。

 一方、東京圏は、このまま推移すれば、今後も相当規模の若者が流入することが見込まれ、2020年の東京五輪は東京圏への流入を更に強める可能性がある。これ以上の東京一極集中は、少子化対策の観点からも歯止めをかける必要がある。また、このことは、首都直下地震対策にも有効である、と発表。
        *
昭和30・40年代の高度(経済)成長時代のことをレビューする。――
(30年ほど前になるが、私は杉並区高円寺に居住して勤めていたことがあるから、かっての東京の状況について少しは知っている、ことをまえおきしておこう。)

人口の大都市への集中・過密化、とくに東京都のマンモス化はすでにはじまっていた。(1962年2月1日付けの朝日新聞の記事、東京都統計局の発表を参考にすれば、)東京都の昼間の人口(近県からの都内への通勤者を含む)は、1960年10月の国勢調査のとき、すでに1000万人を突破していたが、1962年2月1日、東京都の常住(または夜間)人口が1000万人を超える世界一のマンモス都市が誕生した。 (2位は、220万人も少ないニューヨーク市であった。)
人口の推移をみてみると、大戦の終わった1945年は349万人に激減していたが、復興がすすんで1955年には800万人を突破。年間30万人のペースで増加していた。その約2/3の19万人は他県から転入した人(社会増)。5年後の1967年には1100万人を突破。都の推定では、1970年に1200万人、1975年には1400万人に達するだろう、という。(付記すれば、2016年6月の東京都の人口は1361万人。)
人口構成は生産年齢層が一番多くて、都民の平均所得は、国民平均の約2倍の22万円(1960年時)となっている。これが社会増を引き起こす最大の原因であるとされた。過密化の弊害の交通マヒや事故、住宅、教育、あるいはゴミなど環境の難問題を抱え込むようになってきた、とある。

新聞東京人口.jpg

われらの大学生時代、国民、とくに若者は東京に関心をもっていたとおもう。また移住した人も多かったからか、その境遇をうたった流行歌がヒットした。「・・・都へ来てから幾年ぞ、思い出します故郷の・・・」とペギー葉山の歌う『南国土佐を後にして』(1959年リリース)をはじめとして、「ぼくも行こう、東京へ」と、守屋浩が女々しく歌う『僕は泣いちっち』(1960年)も流行ったし、上京当時の境遇を懐旧する『ああ、上野駅』(1964年、井沢八郎)も大ヒットした。

都会に集まってくる理由には、(条件のいい)働き口、就職先があったことや、あるいは大学や専門学校への進学などであったが、文化・娯楽・歓楽・飲食施設なども多数あったし、夜も明るくにぎやかで、遊興できるからである。

大学を卒業すれば、生活していくために就職するが、地方には希望する就職先は(ほとんど)なかったから、地元に残ることは頭になかった。(一部)上場企業、あるいは都会に本社を置く会社になるだろう、と思っていた。
(つづく)
本題に戻って、「市民の足は路面電車から地下鉄へシフト」を書く予定にしている。

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2016年06月29日

アカメガシワに「アカサシガメ」・・・末光

6月20日の朝、団地下の池にさしかかった所でアカガシワの葉っぱの上に、今まで見たこともない色をしたカメムシを発見しました。デジカメで撮ろうとしたらすぐ反応して移動し、そこで一休みしているのを撮ったのが下の画像です。
赤サシガメ撮影日時 2016/06/20 8:07:01

初めてのカメムシなので帰って名前を調べたら、「アカサシガメ」だとわかりました。カメムシならいろんな種類を見ることがあり、特にサシガメと言えば「ヨコヅナサシガメ」だけは見知っており、このあたりにはたくさんいるのでよく見かけますが・・・。
それにしても知ってか知らずかうまい具合に、「アカサシガメ」がアカメガシワ独特の色合いに溶け込んでくれたので、結果として印象的な画像が撮れ、良かったなと思っています。


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2016年06月28日

アカエグリバ・・・末光

6月18日朝、わが家のスイセンの枯葉に、なにか黒っぽいものがあるので近づいてみたら、いつか見たことがある「アレだ!」、とわかりました。その「アレ」がすぐ出てこないので、当ブログ内を検索し、アカエグリバと判明しました。でもこの虫にこうしてわが家で、あいまみえることはもうないはずだったのに・・・。(個人的にはあの昨年末のことを思い出しながら)折角なので記念に撮って置いた画像です。
赤エグリバ@ 赤エグリバA
撮影日時 左:2016/06/18 6:43:38 右:06/18 16:26:57

朝まだ早い時間に見かけ、ときどきどうしているかチェックしながら、ジッとしているのを見てはやはり立派に擬態を押し通しているんだと感心しました。そして夕方撮ったのを限にして、見るのをやめにしました。次の朝は予想通り、影も形もありませんでした。
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2016年06月27日

オオムラサキ・アゲハ・飛来・・・末光

6月26日(露天風呂の日)の朝、なぜかチョウがわが家にあいついで来てくれました。それも珍しいものばかりなので、急遽こうして投稿します。はじめに来ていたのが国蝶「オオムラサキ」でした。それを撮り終わってしばらくしたら、次に来たのが「アゲハ」の合体したものでした。こんなこともあるんだ、と思いながら撮った画像をそれぞれ二枚ずつ添付します。
はじめは「オオムラサキ」です。
大紫@撮影日時 2016/06/26 10:29:47
大紫A撮影日時  2016/06/26 10:31:35

見つけたときはどういう名のチョウかわかりませんでしたが、少しだけ翅をひろげたのを見て「オオムラサキ」だとわかりました。いまちょうど当市の「オオムラサキの里」で羽化しているのは知っていましたが、まさかわが家にこうして飛んで来るとは思ってもいませんでした。自然環境がよくなってきた証として、来てくれたのなら喜んでいいのでしょうが!
つぎに「アゲハ」の合体画像です。
揚羽@撮影日時 2016/06/26 10:39:09
揚羽A撮影日時 2016/06/26 10:39:32

飛んできたのを見つけたときは、上の一匹が羽ばたいて下のは翅を閉じてぶらさがっている状態でした。こんな大きなチョウの合体は初めてで、感心しながらもポカンとして見ていました。そして休むためにとまってくれたので、なんとか上のような画像を撮ることができました。
短時間の間に続けてめったに見られないものを目にできたのは、ラッキーでした。

なお「オオムラサキ」は大きさからオスだと思われます。翅をひろげてくれなかったので、全体を見ることができず、「アゲハ」に気をとられていたらどこかへ行ってしまい、少し残念でした。「アゲハ」はどちらがオスでどちらがメスか、この画像からでは判断がつきかねます。こちらもこれらを撮ったあとすぐ、どこかへ飛んで行き見えなくなってしまいました。


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2016年06月22日

「ウメエダシャク」&「トンボエダシャク or ヒロオビトンボエダシャク」・・・末光

我が家にちょっと見では、キハダカノコによく似た蛾が飛んで来て、木の葉っぱにとまっていたのが6月17日の朝でした。デジカメで撮ってじっくり見たら、やっぱり似て非なる蛾でした。早速調べてわかった名前がウメエダシャクでした。その幼虫は梅などのバラ科を食草にする尺取虫なのでこの名前がついているようです。
梅エダシャク 撮影日時 2016/06/17 9:08:23

この画像を見て思い出したのが、すこし前に撮ったことのあるエダシャクでした。撮り置き画像を探したらトンボエダシャクで同定していました。これは林縁にある用水ポンプ小屋のコンクリ壁にへばりついていたものです。画像を並べてみればよくその差がわかるのですが、別々にみると頭の中では区別ができるかどうか自信がありません。
蜻蛉エダシャク撮影日時  2016/06/05 16:27:06

ところでこのトンボエダシャクについて調べていたら、またしてもそっくりの紛らわしい、 ヒロオビトンボエダシャクというのもいることが分かりました。胴体の黄と黒の模様がクッキリとしているのがトンボエダシャク、その模様がモヤモヤっとしているのがヒロオビトンボエダシャクだと、見分け方が出ていました。

それならと、ネットに出ている画像で調べ自分の画像と見比べたら、トンボエダシャクと同定したのは間違いだとわかりました。これは ヒロオビトンボエダシャクに、同定し直さなければならないことになりました。
というわけで標題があのようになってしまいました。なおこの二種類のエダシャクも先日投稿したカノコガ同様に、午後から夕方にかけて活動する昼行性の蛾です。

先日から虫の名前でいろいろと小難しいことを投稿してきましたが、考えてみるとダーウィンの進化論に出てくるガラパゴス諸島の、イグアナ・フィンチ・ゾウガメの変異についての考察で示されていることに関係しているようです。要するに、生き物は置かれた環境で、そこにある食べ物を利用し、それに適応した各器官が形作られるので、同じ系統のものでもその積み重ねと結果により、似ているが少し違う形体が生じるのでしょう。そしてその差異を表すのに名前で区別するようになった結果、いろいろ小難しい同定をしなければならなくなったと、ということのようです。素人考えですが、そう言うことで自分も今まで随分と同定間違いをしたままであったり、気がついて誤りを正したりしてきましたが、それに懲りずできる限り正しい名前を探し出して、これからも投稿していきたいものです。

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2016年06月20日

「カノコガ」&「キハダカノコ」・・・末光

梅雨の時期のはじめによく見る蛾としてカノコガがいます。翅が鹿の子模様になっているので、見たらすぐ名前がでてくる蛾です。いつも見ているのであまり撮らずに散歩していました。そんな6月12日の朝、よく似ているが胴体がちょっと色違いの蛾がいたので、これは?!と思い撮ってみました。除草後に新しい芽を出したばかりの笹にとまっていました。
キハダカノコ撮影日時  2016/06/12 8:53:20

調べたら名前はキハダカノコと出ていました。胴体の黄色部分が際立っているからということのようです。その後散歩していてカノコガを見かけたので、キハダカノコと違いが分かる画像を撮ることに成功しました。下にそれを添付しておきます。
カノコガ撮影日時 2016/06/17 8:49:21

普通蛾は夜に灯りを求めて活動すると言われていますが、上の蛾は両方とも昼間行動する蛾として知られているそうです。


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2016年06月14日

ミカドガガンボ(帝大蚊)・・・末光

この前ガガンボについて投稿したのは4月20日でした。そのときは「マダラガガンボ」でしたが今回は本邦最大と言われている「ミカドガガンボ」です。これは梅雨のさなか、晴れた朝の散歩でもう少しで団地になる、草っ原から雑木になる際のところで気がついたものです。見た瞬間、これこそは「ミカドガガンボ」だと思いました。「マダラガガンボ」を調べていたときにもう一段大きなガガンボがいるのと、それにふさわしいその名前は知っていましたので、すぐそれだとわかりました。そのときチョット無理をして撮ったのが下のものです。
帝大蚊@撮影日時 2016/06/08 9:11:49

このとき右の翅が草で一部隠れているので、この草を除けて撮ろうと思ったのですが逃げられてしまいました。そして近くのフジ(山藤)のところへとまったので、何んとか全身を撮っておくことができました。その画像も添付します。
帝大蚊A撮影日時  2016/06/08 9:12:23

この個体は尾部の形状からして、メスだとわかります。ほとんどの昆虫はメスの方がオスより大きいので、こうして本邦最大級と最大のガガンボを立て続けに見られたのは、僥倖以外のなにものでもありません。なおフジの葉っぱが変にブツブツがあるのは、「虫こぶ」があるためこうなっているだけで、よくある現象です。

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2016年06月09日

ウラナミアカシジミ・・・末光

入梅の日の画像の末尾はチョウです。これも林縁の笹の葉にとまっていました。目にした時その色模様の鮮やかさに、正直ちょっとドキッとしてしまいました。チョウとガはいろいろ見てきたつもりですが、たぶんこんなに近くで、このチョウを見るのは初めてのことです。名前がすぐ浮かばないし撮って帰り調べることにしました。下はそのときの画像です。
裏波赤シジミ撮影日時 2016/06/04 8:47:12

チョウは、その大きさや形や紋様などから予測がつくので、名前を調べるのは比較的やさしい方だと思います。今回もシジミチョウの一種だろうと思い探したら、「ウラナミアカシジミ」だとわかりました。
なおこのチョウはクヌギを食草にするとのことですが、たしかにこの近辺に所謂ドングリの木はたくさんあります。そのおかげで見られたのでしょうが、調べてみたら広島県では 絶滅危惧II類 なっているとありました。ということで散歩していてこんな綺麗なチョウを目の前にできた、そんな一期一会をありがたく思っているところです。

梅雨は始まったばかりで後一カ月は続きそうです。昔の若かりし頃は、雷が鳴って梅雨入りし、雷が鳴って梅雨明けというのが定番だったように記憶していますが、近頃はその辺がモヤモヤっとしているようで、季節感というのがなにかにつけてぼやけている気がします。それで最近では、タチアオイが咲き始めると梅雨入りかなと思い、タチアオイが最上段まで咲き切ると梅雨明けかな、と思うことにしています。

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2016年06月08日

マダラアシナガバエ・・・末光

続いて二番目は、数年来この季節には林縁でよく見かけていたハエです。金属光沢の綺麗なかわいい昆虫で、先の「クチナガハリバエ」を同定したときハエの画像を見ていたら、偶然このハエの名前の手掛かりを見つけました。歩道際の笹の葉にとまっていました。
肢長バエ撮影日時 2016/06/04 8:46:40

アシナガバエの画像は多くて色々迷いましたが、翅に模様があるので「マダラアシナガバエ」と同定できました。そして上の画像の個体は、胴体がすらっと細いので雄だと思われます。大きさは1cmにほど遠い小ささで、明るい林縁で数匹がときどき飛び交っていました。
すこし調べたところではハエと言っているが、限りなくアブに近い昆虫とのこと、よって肉食系でより小さな昆虫や植物につくアブラムシを食べてくれる、どちらかと言えば益虫です。たまに人家に入ることがあるが、人畜には無害だそうです。念のため!

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2016年06月07日

クチナガハリバエ・・・末光

6月4日(土)九州、四国、中国、近畿、東海地方の梅雨入りが発表され、当分の間なにかと鬱陶しいことになりそうですが、できるだけ晴れ間を利用して、虫撮り・その他で気分転換を図りたいと思っております。
ちょうど梅雨入りのニュースを知る直前に、散歩していて撮った画像を並べてみます。少しでも気分転換になればよいのですが。
先ずはじめは、少し前からケヤキで見かけていたハエの仲間です。ケヤキの幹にとまるのはいつも下向きで、近寄って見ると口にストローのような管がついていました。これは見ていただくとわかると思うのですが、口の形がどう見ても普通のハエとは違います。(画像は右回転したものです)
口長針バエ撮影日時 2016/06/04 8:39:48

最初見つけた時はハエかアブか見分けられないまま、名前探しに苦心しましたが、探しまわった挙句やっとわかったら「クチナガハリバエ」という名前でした。わかってしまえばまさにその通りの名前なのですが、ハエと知るまでに時間がかかり、わかってからはじめて撮ったのが上の画像です。
少し調べてみたらこのハエは、この時期に咲くネジバナや、秋に咲くセイタカアワダチソウのような、小さな花の蜜を吸う暮らしをしています。ということは年二回発生するようなので、秋が来たら注意して探してみようかと思います。
そしてもうひとつ判ったことは、卵から一齢幼虫(ウジ)になったら、土の中でコガネムシの幼虫を探し、それに寄生して成長するとのこと。そのコガネムシの中でも、ちょうど今時よく合体しているのを見かける、マメコガネの名前がありました。
それで思い出したのがケヤキの幹の周りで、この「クチナガハリバエ」が目が回るくらいのスピードで追っかけをしていました。これは多分、雄が雌をキャッチする行動だったのだろう思われます。(マメコガネの天敵のひとつがこのハエがだったのだ)


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2016年06月05日

高度成長時代の通勤風景(2)・・・小足

閑話である。2017年度の採用選考活動が6月から始まった。3年前の2013年4月3日付の第297回の『徳島青春日記』において、―― 就活で、なかには20社以上を受けても内定ももらえない学生がいる、というテレビ報道があった。現在の就職戦線は狭き門で、就職氷河時代とも呼ばれている。一方、1960年代に学生時代を送ったわれわれのときは、大学入学は、入試地獄とも呼ばれる狭き門ではあったが、ときは高度経済成長時代、産業界では、設備投資や技術革新で、理工系の技術者の需要が急増して、求人ブームを呈していた。理工系学生は売り手市場で、求人企業は、「青田買い」をしていると、新聞で揶揄された(朝日新聞、37/5/23)。今の学生とくらべると、天と地の差で、現状に同情を禁じえない。―― と書いた。

その後どうなったかといえば、日経新聞(2015年5月15日)によると、―― 2015年の春に卒業した大学生の就職率は96.7%と、過去最高だったリーマン・ショック前の2008年春(96.9%)に次ぐ高水準だった。2016年春に卒業予定の大学生の就職活動も、学生有利の売り手市場が続き、大企業を志望する学生が増える見通しだ。――とあった。(追記すると、)実際値は、過去最高の96.7%になっていた。これでも、日本の景気はよくなっていない、というのでしょうか?
        *
■(本題に戻る。)昭和30・40年代の高度経済成長時代、都会の人口が過密化していることは、朝夕の通勤ラッシュ時の風景からも推測できた。モータリゼーションの進展で、市街道路を走る自動車の数は急増して道路交通は渋滞し、駅ターミナルは行き交う人で混雑した。近郊を走る汽車や電車は、押し合いへし合いの超満員であった。(東京の国電では、満員の電車にさらに乗客を押し込んでいた、ことが知られている。)
*
大阪に居住していた私が、通学・通勤途上で見てきたことのよもやま話≠つづける。(といっても、ニュースになるようなことではなく、ささいなことである。)
私の見聞からいえば、阪和線(天王寺・和歌山市駅間)の各駅停車の電車の混雑はひどかった。かって(1964年)東住吉のアパートに居住して大学に通っていたが、その通学経路は、阪和線の美章園駅から天王寺駅に出て、環状線に乗り換えて京橋駅で降り、繁華街を10分ほど歩いて東野田の工学部キャンパスに通う、というというものであった。美章園駅は、終点天王寺駅の一つ手前の駅だから、通勤ラッシュ時になると、来る電車みな満員状態になっていたが、(これ以上は乗れない)超満員のときは、「後の電車を利用してきださい」と、当駅をパスしていくことがたびたびあった。(停車してドアーを開けようものなら、押しくらまんじゅう状態の車内から乗客があふれ出し、再乗車するのがむつかしくなるからである。(駅員が車内に押し込んでくれるならまだしも、自分で前のひとを押し込みながら乗車しなければならないのだから。乗れなかったら、遅刻してしまうと、駅員と喧嘩になるだろう。)ということで、美章園駅からの勤め人は、早朝出勤しないと、遅刻してしまうことになるのであった。冬は着ぶくれているから、混雑はいっそうはげしくなる。車両のドアーに服やスカート、時には手提げカバンが挟まれたままで通過していく電車も見かけた。窓ガラスが割れていたこともあった。(阪和線の近代化は一番遅かったのではなかった、とおもう。)
*
大阪での混雑のはげしい駅は、国鉄(JR)の大阪駅(地下鉄、阪急、阪神電車に接続)、環状線の京橋駅(京阪電車)、鶴橋駅(近鉄)、天王寺駅などがあげられるが、私の通学・通勤経路でいえば、京阪電車の(カーブした)京橋駅と駅西側の踏切は、事故が起こってもおかしくないくらい危険な状態にあった、とおもう。(当時の私鉄の駅舎や線路は旧式のままで貧弱であった。)
当駅のすぐ近くにある国鉄京橋駅に通じる道路と踏切は、体が接触するほどの大混雑ぶりで、通勤ラッシュ時は、踏切棒の上げ下げは頻々で、せわしなく警報のベルが鳴り響くので殺気立ってくるのであった。通行人は、踏切の上がっている短時間に急いで渡らなければならない。中には、辛抱しきれず踏切棒をくぐり抜けて渡る人がいたから、踏切の警手は笛を吹いて、危険な通行をする人を制止させなければならない。心労は絶えなかった、とおもう。

京阪京橋駅HK.jpg1965年ごろの京橋駅西側の踏切の混雑ぶり(京阪電車提供)

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2016年05月31日

近場のギンリョウソウ・・・末光

今年もギンリョウソウを見ておかなくてはということで、今まで見かけたことのある場所へ出かけてみました。四か所あるのですが、全部我が家の近辺なので、それほど気を使うこともないのがなによりです。
はじめに行ったのが5月2日で、以前キンランを撮って投稿したところで、キンランを見たり、シュンランを見たついでに、ギンリョウソウを探したらありました。
次は5月15日に思い立って朝の散歩でいつもの公園を通り過ぎ、年に一度は大粒のヤマモモをいただきに行くところで、去年見つけたのと同じ日当たり悪い場所で探し当てました。
翌日の5月16日には、残りの二か所を朝の散歩を兼ねて巡ってきました。これは何年か前にたくさんのギンリョウソウを見つけ、近場での宝庫だと思っていた場所と、四か所目はその山をぐるっと回って散歩の折り返し点のそばに位置する、雑木林の山すそです。
下にそれぞれの画像を添付しておきます。やはり最初の5月2日のが時期的にも一番良かったようで、その他はちょっとイマイチでしたが・・・。
安銀 淵銀
撮影日時 左:2016/05/02 10:14:48 右:05/15 9:04:46
栗銀 折銀
撮影日時 左:2016/05/16 8:33:51 右:05/16 9:21:27

なお各ギンリョウソウ撮影場所ですが、我が家から直線距離でそれぞれ1.9km、630m、850m、420mの位置にあります。
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2016年05月28日

アザミに「ゴボウゾウムシ」・・・末光

公園の散歩中、思いがけないところに濃いピンク色が見えたので、近づいてみたらアザミが咲きかけていました。いつもの公園ですが、アザミがあるとは気にもとめていなかったので、珍しさもありしげしげと眺めてみました。よくよく見たら小さな虫が、何匹か動いていました。どうもゾウムシのようなので気になり、そうすると撮ってから調べてみたくなります。
ゴボゾウ@ ゴボゾウA
撮影日時 左:2016/05/13 8:32:01 右:05/13 8:33:05

例によっていろんなサイトでチェックした結果、「ゴボウゾウムシ」であると確信しました。するとなんでアザミに「ゴボウゾウムシ」か、ということが気になります。これについては次のことで納得できました。
実はアザミがキク科であるととともに、ゴボウもキク科であるからとの情報が載っていました。でもゴボウがキク科?、というのがどうもピンとこなかったので、ゴボウの検索をしたら花が出ていました。それを見たら途端に、納得一直線となりました。
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2016年05月26日

銀塩フィルム写真の修整・・・小足

むかしの(銀塩フィルム)写真もスキャナーで走査してパソコンに読み込めば、失敗したと思って印画紙に焼き付けていなかった写真でも、けっこうたのしめるものである。
        *
■(大阪市)都島区のホームページを閲覧していると、「区政70周年を迎えるにあたり、昔と今の(都島区の風景)写真を募集しています」という記事が目にとまった。運よく、大阪市都島本通り交差点で撮った市電の走る写真が残っていたので、この際、応募してみようか、という気持ちがわいてきた。応募に一番いいと思える写真を選んだが、拡大して細部を見てみると、キズや汚点やほこりが写りこんでいた。微小な欠点とはいえ気になったので、できれば取り除いておきたい。

これまで高度な写真修整テクニックは使ったこともなかった。レタッチ・ソフトでどんな修整加工ができるのかはよく知らなかたので、ガイドブックを読み演習もやってみた。
微小な黒点は、「ほくろ」コマンドを使えば取り除けることを知った。白黒反転すれば、ネガの黒点(ポジの白点)も取り除けることを思いついた。手間ひまかかるが、(綿繊維のような)ホコリの影絵も取り除けた。困難とおもえるが、ブラシで掃いたようなグレーの筋線を取り除きたい。
        *
■(多度津町海岸寺)西白方の海岸沿いを走る汽車を、山腹から望遠レンズで撮影した(銀塩ネガフィルム)写真(2コマ)と、魚眼レンズで撮った潮干狩りする少女たちの写真(8コマ)が残っていた。(失敗したと思っていた写真である。)

思い返せば、撮影の動機は、海岸沿いを走る汽車を鳥瞰的に撮影してみたいという欲からであった。(1967年の夏、重いカメラバッグと三脚を持って、)崖のような山腹に登った。汽車の見える場所を探すのにも一苦労したが、ローカル線は通過する汽車の本数も少ないことから待ちくたびれて時間をもてあまし、それでいてシャッターを切るタイミングを失してしまうこともあった。2コマしか撮っていなかったが、撮影をあきらめ、崖から下りて海岸寺駅へとてくてく歩いた。
海岸寺駅近くの入り江は、折しも干潮であった。潮干狩りをしていた少女たちがいたので、写真を撮らせてもらうことにした。魚眼レンズで納得のいく写真をとるには、近接しないといけなかったが、警戒もすることなく自然な姿で、応じてくれた。

(円周)魚眼レンズで撮った写真(ネガフィルム)は露光不足にくわえて、太陽光に起因する光の輪(光暈、ハロー)や乱反射光が写りこんでいる。これらの欠点が修整できるなら、魚眼レンズ特有のデフォルムされた画像には独特の魅力がある。いまの私の関心は、これらの欠点の修整である。どこまで改善できるか挑戦してみようとおもっている。

海岸浜A4.jpg



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2016年05月22日

オオクモヘリカメムシ・合体・・・末光

朝の散歩のとき、林縁の笹の葉で合体しているカメムシを見つけました。折り返し点からの帰り道で、もう一度見たら相変わらず仲むつまじく朝の光を浴びながら、あまりにも鮮やかで目に優しい色合いだったので、つい撮って帰りました。
亀虫合体撮影日時 2016/05/04 9:01:28

このカメムシについて調べたら名前は、オオクモヘリカメムシで食草はネムノキであるとわかりました。たしかに林縁にネムノキが少なくとも二本はあるので、この近辺で生まれ育ったのだろうと思われます。
ついでにオオクモヘリカメムシについて読んでいたら、普通に見かけられるカメムシのなかで、その臭いは最強であるとのこと。ただし家の中へ入ってくる習性はないので、その点神経質にならなくても良いそうです。もし野外で見かけても、決してさわったり・つついたりしないように、注意は必要です。

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2016年05月18日

なぜか「ヒゲコメツキ」♀ばかり・・・末光

この虫に出会ったのは4月30日の朝、いつもの公園でのことでした。コメツキムシだとすぐわかったが、いままで見たこともない明るい色をしているので、撮って帰って調べてみました。結果、ヒゲコメツキと同定できましたが、画像を見てこれは明らかに雌の個体だと判明しました。そしてぜひとも雄も見てみたいものだと思わずにはいられませんでした。
それからも公園や林縁でしばしば見かけるのは雌の個体ばかりで、見て撮りたかった雄の個体にはついに巡り会えずに、この件に関しての今年は終わりのようです。公園と林縁で何度か撮った雌のヒゲコメツキで、うまく撮れた画像だけ添付しておきます。
ヒゲコメ@撮影日時 2016/05/02 8:38:21・・・公園
ヒゲコメA撮影日時 2016/05/06 9:07:35・・・林縁

雄の見事な櫛状の触覚については、ネットの画像を眺めておいてそのイメージを次のシーズンへの繋ぎにすることにしておきます

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2016年05月12日

カワラフジと川原慶賀から一年・・・末光

ちょうどゴールデンウィークのころ、芦田川の土手道を車で通っていると、ほとんど緑一色の中で黄(金)色のカワラフジの花がよく目立ちます。当市では二か所でしか目にすることができませんが、自分にとってカワラフジは、ゴールデンウィークを象徴する花になっています。
理由は去年カワラフジと川原慶賀の結びつきを知ったのと、この一年で川原慶賀について多少なりとも関連図書を読んだりして、その人となりを思い出すのにカワラフジが一番の決め手になってしまったからです。もちろん花の色がポイントになっているのは、お察しいただけると思います。(前置きはこのくらいにして

長崎の絵師・川原慶賀を知り、ウィキペディアを見ていたら関連図書として、ねじめ正一の『シーボルトの眼 出島絵師 川原慶賀』 集英社というのがありました。興味を覚え当市の図書館検索をしたら、ヒットしたので借りて読んでみました。
これはオランダ商館長ブロンホフのとき出島絵師となってから、つぎの商館長スチューレルが江戸参府するとき、医師シーボルトについて江戸まで行った川原慶賀を主題にした小説です。そして江戸で葛飾北斎との交流を通して北斎の娘・応為(お栄)を知ります。後半はシーボルト事件に連座し、その後も世情厳しくなった結果所払いとなり、そこで応為(お栄)とふたりで絵を描きながら静かな暮らしを送りました。という晩年が定かでない慶賀と応為(お栄)を結びつけた、ねじめ正一ならではの作品になっていると思いました。(著者の作品は初読なのに以下の読書経験も加味して・・・)
もちろん史実も書き込まれていて、このときの江戸への参府には外国人としては、上記二名ともう一名商館員ビュルゲルの三人だけでした。一年前の自分の投稿で、慶賀に西洋画法を伝授したデ・フィレニューフェも同行して、周防大島の「シーボルト上陸の地」に降り立ったとしたのは、自分勝手な思い込みによる間違いであることが、この本を読んで判明しました。一年かかりましたが、ここに訂正させてもらいます。


それからこの本を読んでいて思い出した作品が、(その昔NHKTV夜8時台の「コメディーお江戸でござる」に解説者として出ていた)杉浦日向子の描いた『百日紅』でした。これは福山の図書館にあったので借りて読みました。漫画なのであまり気にせずに、どんどん読んでしまいました。
北斎と応為(お栄)を取り巻く人間集団について、江戸時代にこのような生活があったのがよく描写されている作品です。市井の人の生活感が淡々と写し出されており、特に北斎の周辺が、本音で生きる姿勢が見事に出ているのは、読んでいて気持よかった。
川原慶賀が多少でも絡んでくるかと期待しましたが、これは空だのみに終わりました。なおこの本の題は 「散れば咲き散れば咲きして百日紅」 加賀千代女 からつけられていることが冒頭に出ています。


そしてつぎは、たまたまゴールデンウィーク前の新聞に、朝井まかて『眩』(くらら)新潮社の紹介記事が出ていました。読んでみたら、「葛飾北斎の娘で絵師の応為(お栄)の姿を描いた長編小説」とありました。これも何かの縁と本屋で探し手に入れ、一気読みしました。内容的には『百日紅』とダブるところがあり、ある意味読みが深まる気がしました。女絵師の生きてゆく姿を女性作家が力を込めて書き込んであり、女子力にタジタジになりながら読んだ部分もあります。例えば北斎が「おうよ。男はしょせん女の出涸らしだぁな」というセリフが出てくるとろこなんかでは、読んでいて二の句がつけませんでした。
北斎の「富嶽三十六景」が制作される個所の記述は、特別に自分としては印象に残りました。天災・人災はいろいろとあるが、戦乱のなかったことが人々をどれだけ活気付けたことか、そんなことも思い起こさせてくれる読み物でした。
この本には川原慶賀がオランダへの土産に、北斎の絵を依頼に来る場面があり、この個所では自分なりに「然もありなん!」と安心しました。

これだけ読んで葛飾応為についてウィキペディアで再確認したら、関連本として山本昌代の『応為坦坦録』というのがあると知りました。市の図書館にあったのでこのあと借りるつもりでいます。川原慶賀が登場するかどうかも含めて、読むのを楽しみにしているところです。

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2016年05月08日

中国の電車マナー・・・Tajiri

中国人は公共マナーが悪く、電車の乗降時には人を押しのけて我先に突進するし、車内では大声で話をして迷惑この上ないという通説は一昔前の話。
最近では少なくても北京や上海のような大都市ではそのような無作法な乗客はほとんど見かけなくなった。それどころか・・・

老人を見るとサッと席を譲るのだ。私は老人らしい格好をしているわけでもなく、車内では努めて座らないようにしているのだが、地下鉄で席を譲られて座るべきか断るべきか困ったことが度々ある。
東京の地下鉄で席を譲られたことは一度もないどころか、優先席にふんぞり返って座っている若者が結構多い。

中国の長距離列車は発車20分くらい前に当該列車のプラットホームの入口で改札をするシステムで、改札口の前には長蛇の列ができる。先日北京から杭州まで高鉄(新幹線)に乗ったとき、改札駅員が行列を見まわして老人(私など10名くらい)を見つけると「こちらへどうぞ」と老人専用改札口に誘導し、一般客を尻目に優先乗車させてくれたのだ。

中国も経済大国になって孔孟の教えがよみがえったのだろうか。老人と見られることは嬉しいことではないが、有難いことだ。





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高度成長時代の電車通勤でのハプニング・・・小足

渋谷のスクランブル交差点や満員電車のことが外国人観光客に興味がもたれているようで、わざわざ現場を見にきて、写真を撮ったりしている姿がテレビ(BS4、「外国人 ニッポンの観光は? 外国人が惹かれるニッポンの日常」)で報道されていた。逆に、われら日本人は関心がもたれることを不思議におもう。
わが街千中にも、(渋谷とは比較にならないが、)スクランブル交差点がある。関西人はせっかちだから、みな目的の方向へ早足に渡っていく。のろのろする人がいると追突したりするけど、そんな人はめったにいない。
私の観察にもとづけば、新入社員などが通勤しはじめる新年度になると、人の流れに少々混乱が見られた。人混みでの歩き方を知らない新参者(あるいは、おのぼりさん)が、とくに先頭を行くと、キョロキョロしながら歩くので流れが混乱するのである。しかし半月も経てば、いつものような流れにもどる、ことを知っている。
        *
長時間の電車通勤を長年にわたってやってきた私である。来る日も来る日も通勤ラッシュであった。長年にわたると、(記憶に残る)何かの出来事を目撃したり、ハプニングに遭遇してきた。今回は、そのよもやま話をしてみたいとおもう。(といっても、ニュースになるようなことではなく、ささいなことである。)
私は、勤めはじめて最初の6年間は、西宮市から(大阪市の中心街を経由して)寝屋川市にある職場に通勤していた。阪急神戸線で西宮北口駅から梅田へ出て、国鉄(JR)環状線で京橋へ、そこから京阪電車で寝屋川市へ行くコースであった。別の経路に、地下鉄御堂筋線で淀屋橋に出てから、京阪電車で寝屋川市へ行くコースがあった。運賃は割高になるが、淀屋橋駅始発の電車だから座席に座れるメリットがあったので、この経路に切り替えた。
(通勤電車であった阪急電車、地下鉄、そして京阪電車内で遭遇したハプニングを一件ずつ紹介したいとおもう。)

(よもやま話1) 婦人に頭を叩かれたハプニング
阪急電車の特急電車の窓は、一枚ガラスの窓枠(大きさは約1m四方)を下に押し下げて開ける構造になっている。まだ冷房車のなかった時代(1970年前後)のこと、むし暑いシーズンになると、「窓を開けてくださいますように・・・」と車内放送があったようにおもう。

ある日、座席に座っていた私の前に、ハンドバックを小脇に抱えた婦人が立っていた。むし暑かったのか、その婦人が私の頭越しに右手を伸ばして、窓枠の上の把手を叩くようにして窓を押し下げようとした。ところが、婦人は手が滑って、平手打ちするように私の頭を叩いたのだ。力がはいっていたのか、「バチン」という音がした。私はびっくりもしたが、痛かったので頭をさすった。婦人も痛かったのか、手をぶらぶらさせながら、「ごめんなさい」と、ひとこと謝った。予期せぬことであったので、私はすぐに応答できなかった。
まわりの乗客が私をじろじろ見た。もし喧嘩していたとおもわれたのなら、とんだ災難だ。婦人から辱めをうけたようにもおもえてくるのだった。素っ気ない態度の婦人に、「痛いじゃないか。女のくせに、何をしやがるんだ!」と怒るべきだったか。(だけど、そんな度胸はなかった。)「気をつけんかい、あほたれ!」と苦言を呈すべきだったか。とか、・・・と思いあぐねたが、応答するには、タイミングを失してしまっていた。

婦人は、右手でつり革を握ったまま私の前に立っていたが、私は頭を上げて婦人の顔を見る度胸はなかった。婦人は、この場をなぜ移動しないのだろうか。なにか体面を気にしていたためだろうか。そんなことを思案していると、私は平然としていられなくなってきた。電車が早く梅田に到着してくれないかと、気持ちがせいてくるのだった。
梅田に着いて、下車するために座席から立ち上がると、まじかに顔を合せることになるだろう。その時、ひとこと(素っ気なさすぎるよ)言うべきか、とも思った。ところが、婦人は何事もなかったかのように知らん顔して改札口に向かったのだった。

私は内気であったために耐えたが、もし喧嘩して騒ぎになっていたらどういう結末になっていただろうか、と思ったりするのだった。


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2016年05月06日

クリアナアキゾウムシ・・・末光

散歩コースのあちこちに楮の木がありますが、そのうちの一本の葉のてっぺんにゾウムシがとまってゴソゴソと動いていました。そのとき撮った画像です。
栗穴明撮影日時 2016/04/24 16:15:34

この場所は葛が繁茂するので、ゾウムシと言えばシロコブゾウムシをよく見かけるのですが、こんなのは初めてでした。ゾウムシとしては比較的大きいので楽しみに調べてみたら、クリアナアキゾウムシだと分かりました。たしかに近くに栗の木がありドングリのなる木もいろいろあります。このゾウムシはシロコブゾウムシとは違い、飛ぶことができるタイプなので、この木に来ていたのだろうと思います。
ここまで書いて気になるのでチェックを入れていたら、またしてもよく似たので紛らわしいのにマツアナアキゾウムシがいるとありました。でも自分としては大きさからして、クリアナアキゾウムシだと確信しています。(そういえば、散歩コースにある栗の木の一本が弱ってきているし、一本は去年枯れてしまいました)

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2016年05月05日

テントウムシの産卵・・・末光

4月19日(火)夕方、テントウムシの産卵の様子を時間を追って撮ることができました。先ずその画像を下に並べておきます。
並天@ 並天A
撮影日時 左:2016/04/19 16:23:33  右:04/19 16:28:21
並天B 並天C
撮影日時 左:2016/04/19 16:27:14 右:04/19 16:28:58

実はこれを撮る2・3日前、ケヤキの幹に産みつけられた卵だけは見ていたし、卵のすぐ傍にテントウムシがいたのも見ました。でも産卵しているところは見たことはありませんでした。
そしていつものように散歩していたら、市の施設の入り口にある三本のケヤキのうちの二本で、ほぼ同時に産卵しているテントウムシを見つけました。こんなチャンスはもうないだろうと思い、二匹を代り番こに撮ったのが上の画像です。
今回自分が見たかぎりでは、テントウムシの産卵はどうも夕方に集中しているのは確実のような気がしました。(なお、この画像のテントウムシの名前はナミテントウです)
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2016年05月04日

中央公園の新緑・・・小足

近くの中央公園も新緑いっぱいです。池のほとりにある高いヒマラヤ杉の中には、その天辺まで藤の花で覆われています。藤花ツリーとでもいえるでしょう。(下の楕円縁の写真は注目部分のクローズアップ)

藤m24.jpg


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2016年04月30日

オオエグリシャチホコ・・・末光

あの「アシブトチズモンアオシャク」を見かけた4月16日の夕方、公園のアカシアの木の幹で、その木肌によく似た色をした、変なかたちの虫を見つけました。よく似たかたちの虫は、以前どこかで見たような気はしたが、色と大きさが明らかに違っていました。とにかくこれは初めて目にした虫なので撮っておき、調べるのことにしました。それが下の画像で、その特徴が出ている側面と念のために真上から撮ったものです。
オオエグリ@ オオエグリA
撮影日時 左:2016/04/16 16:16:13 右:04/16 16:16:30

側面から見たときに思い出したのが、よく似ていると思った「エグリトビケラ」のことでした。それを手掛かりに調べてみましたが、それだけではなかなか分かりませんでした。それでアカシアに来ていたので食草に関するサイトでチェックししてみました。が、これでもヒットしてくれません。
そこで気が付いたのが普段アカシアと言っているがあれは俗称で、「ニセアカシア」または「ハリエンジュ」というのが正式の名前はです。そこで改めて「ニセアカシア」で検索したら、出てきたのが「オオエグリシャチホコ」でした。画像をチェックしたら間違いなしであり、自分が見た個体は大きさからして、メスである可能性が高いと分かりました。
上の枝の方にはもう新芽が出て、若葉になろうとしている時期なので、もしかしたら卵を産みつけるために、来ていたのかもわかりません。
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2016年04月28日

高度成長時代の大阪の風景 ―― 城東貨物線・淀川駅・・・小足

(まえおき) 前々回(4月11日付)の話題に、阪神電鉄・北大阪線の路面電車のことをとりあげた。もちろん、それ以前に大阪市電のことも何回か話題にした。確かめてみると、2015年1月7日、12日付(第412、413回)、もっと古くは、2011年9月1日付(第218回)となっていた。もう5年も前のことになる。写真の撮影場所を再確認してみたところ、第218回の添付写真3と4とその説明文が一致していないことが判明した。訂正を兼ねて、あらたに城東貨物線を話題にしたいとおもう。というのは、城東貨物線の淀川橋梁(赤川仮橋)は、複線の片方を人道にしたユニークなトラス鉄橋で有名であったが、1982年に廃線になり、その淀川駅も役目を終え、跡地は再開発されて様変わりしていること。またネットサーフィンで知ったのであるが、都島区役所が、「みやこじま今昔館」と題して、古き良き都島を感じられる写真を通じて、都島の良さを再認識しませんか、という広報誌の企画で、写真などの募集をしていたことに刺激された。
活気のあった高度成長時代のことを知る人も少なくなってきたので、記録に残しておきたいとおもう次第である。まえおきが長くなってしまった。
        *
(ときは、1970年に開催された大阪万博の2,3年前のことである。)
都島中通と南通の境に、市電の走る道路が城東貨物線の上をまたぐ陸橋があった。この陸橋の西方に淀川貨物駅があった。(地図を添付できないので、詳しく説明していくことにする。)市電が都島本通から南下して都島中通停留所を出たところで貨物線に突き当たる(撮影地点A)が、市電はその直前で東南方に曲がって貨物線と平行するように陸橋の坂を上っていく(撮影地点B)。こんどは南方に曲がって貨物線の上をまたぎ、そして坂を下っていく。その東側に高瀬染工場(1980年、石川県美川町に移転)、西側に雪印乳業大阪工場(2000年夏、集団食中毒事件を起こし、工場閉鎖後の跡地にマンションなどが建っている)があった。(私の居住していた最後の市内アパートもこの近くにあった。)さらにいくと、こんどは国鉄(JR)大阪環状線のガードをくぐる。すぐの所に都島南通停留所があり、さらにすこし行くと、東側に阪大工学部キャンパス(1970年に吹田千里山に移転)があった。カッコ注記したように、数十年間という年月が経ってみると、市街の風景・風物は一変してしまった、ことがわかる。

淀川貨物駅mn5.jpg
写真1: (撮影地点B) 都島中通りにある陸橋の坂を行き交う市電と市バス。市電は守口に向かって坂を下っている。市バスの行き先表示は大阪駅とあった。写真背後に見えるのは淀川貨物駅構内で、貨物線は市電の左側を通っている。中央に白くみえる横線は、阪神高速12号守口線(北浜・森小路区間は1968年5月開通)。その背後に名神ハイウエーらしきものも写っていた。

写真2: (撮影地点A) 陸橋の坂の上り口から、淀川貨物駅構内を覗き込むようにして望遠レンズで撮影。(中央の電柱が目障りではある。)朝の通勤・通学ラッシュ時、構内の線路の横断歩道を行きかう通行人。(写真右方の)都島通り地区と(左方の)環状線・桜ノ宮駅方面との近道のようである。(狭い横断歩道だから地域住民しか知らないのではあるまいか。)

写真3、4: (銀塩フィルム1コマの全画面を本プログ画面の制約表示では細部をお見せできないので、)原画の右半分および左半分の通行人のところをクロッズアップして表示した。
高精細スキャンのデジタル写真をズーミングして観察してみると、意外と細部まで解析できた。撮影当時は気も付かなかった通行人の身なりまでわかった。勤め人のほかに高校生もいた。自転車をおす人もいた。緩急車やディゼル機関車DD51が停留していたこともわかった。D51もいるようだ。

写真5: 1964年4月、大阪に出てきて最初のアパートは旭区赤川町3丁目にあった。東野田の阪大工キャンパスへは市電で通学したが、ある日、市電の走る道路の上を跨いで蒸気機関車が通過するのにはたまげた。市街をD51が通過するのはどういうわけか調べておく必要がある、と思い続けていたが、それから数年後のこと― 淀川橋梁(赤川仮橋)の人道橋を渡っていた時、背後から蒸気機関車D51がやってきた。そして通過していった。慌てて撮った写真だから、すぐ横を走るD51のド迫力!は感じられない。(このほかに写真が残っていないのが残念である。)


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2016年04月26日

「マエキトビエダシャク」か「オオマエキトビエダシャク」か・・・末光

4月24日(日)の朝、散歩の折り返し点で見た、また別の蛾についてのアレコレです。この蛾はド派手な色だけに緑いっぱいのなかで、少し離れたところからでもよく目立っていました。近づいて見たら、木に葉っぱにピッタリ貼りついたようにとまっていました。まずそれを撮った画像をじっくりと見てください。
大前黄撮影日時  2016/04/24 9:00:14

この蛾も自分としては初めてのもので、ひときわ鮮やかな黄色と焦げ茶の模様で、どうしてこの新緑の季節に出てくるのか。まさか落ち葉になった気?・・・・とも考えられないし。
またも蛾の真面目な話ですが我慢して読んでください。そのアレコレですが、名前はいつものサイトですぐ分かったのが「マエキトビエダシャク」でした。そして同定についての確認をしていたら、それに関するサイトに出ていたのが「オオマエキトビエダシャク」という、よく似た蛾がいるのが分かりました。
その差異についてもやはり画像で説明があり、幼虫の好む食樹が出ていました。それらについて羽の模様や大きさについて比較し、また自分の知っているこのあたりの植物相を当てはめて考えた結果、この画像の個体は「オオマエキトビエダシャク」に間違いないと思いました。この近くに「ナナミノキ」が三本はあります。これは「オオマエキトビエダシャク」の幼虫の植樹だとありましたので・・・。
名前の由来は、羽の前側が黄色でありその後方が鳶色で、幼虫のとき木の枝に擬態する尺取虫であるところからの命名です。そしてほんのちょっとだけ模様に差異があり、ちょこっとの大きさの違いにより、「オオ」が付くか付かないかで区別されているようです。
それにしても先日のシャクガといい今回のエダシャクガといい、ほんの微妙な差異で名前が違うのがあるんだと教えられました。そして同じようなことが続けて起こるということのようで、今後何事も心してやらないといけないようです。いろいろ勉強になりました。


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2016年04月25日

「チズモンアオシャク」?「アシブトチズモンアオシャク」?・・・末光

4月16日の朝、散歩の折り返し点で見つけた蛾にについてのアレコレです。
この蛾を見つけたときは、下の画像のように草の葉っぱにしがみついた状態で、裏側しか見えませんでした。なにかは分からないが一応撮っておき、表の方がどんなものか興味津津、逃げられても仕方がないと思いながら・・・。
地図紋裏撮影日時 2016/04/16 8:59:44

静かにそっと表の方にしたら、逃げずにそのままでいてくれたので、その見事な色におどろきつつも素早く撮ったのが次の画像です。撮ったあとは、そぉ〜と元の状態に戻したのは勿論ですが。
地図紋表撮影日時  2016/04/16 9:00:01

さてここからがアレコレです。例によって早速、この見事な模様をした蛾の名前探しです。いつも利用しているサイトでチェックしたら、すぐにヒットしたのが「チズモンアオシャク」でした。言われてみればなるほど、たしかに地図の紋様に見えるし、緑色がアオは日本の常識!として、幼虫が尺取虫だったということからの命名。もうこれで決まりと思いました。
でもいままで虫の同定がいかに難しいかある程度経験しているので、もう少し他のサイトもチェックしておこうかと、ウェブや画像でザザザッと確認してみました。そして分かったのが以下のことです。
それはほとんど同じ紋様をした「アシブトチズモンアオシャク」という名前の蛾がいるということでした。「アシブト」が付くか付かないかの違いについては、画像付きで紋様の違いが詳しく説明してありましたが、地図模様の些細な違いを細かく詮索するのにはついていけないのでパスし、他の違いを探しました。
それは食草・食樹の違いについての記述でした。これがヒントになって面倒な同定がすっきりしてきました。尺取虫時代に「ガガイモ」の葉を好んで食すのが「チズモンアオシャク」で、「テイカカズラ」の葉を好んで食すのが「アシブトチズモンアオシャク」であると出ていたのです。そして発生する数は「ガガイモ」と「テイカカズラ」の多少に因るので、当然ながらと言っても良いくらいあちこちにあるのが「テイカカズラ」のほうです。
ご多聞にもれずこのあたりでも断然多いのが「テイカカズラ」であるのは言うまでもないので、この画像の個体は「アシブトチズモンアオシャク」である、と確信した次第です。それにしてもこの二種のアオシャクが好む植物の種子に、「種髪」という共通項があるのは何かの暗合ではないかと、自分には思われてなりませんでした。
初めて見た蛾の名前について、調べたことを長々と講釈をしましたが、以上です。


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2016年04月20日

東京組の台湾旅行・・・Tajiri

東京組7名(+3夫人)の恒例の旅行は4月15〜18日の3泊4日で台湾南部に行きました。在台歴10年の植田氏の引率で台中(3泊)を拠点に周辺観光地を訪問。美食美食の連続で皆体重が3キロは増えた模様。

台湾

田尻のみ3日先発して高雄(2泊)・台南(1泊)を回り台中で合流しました。
来年は吉田氏の引率で韓国南部に行こうとなっています。それまで元気を維持しなくては!!!



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「マダラガガンボ(斑大蚊)」・・・末光

4月13日の朝、いつもの通り公園の木々を見て回っていたら、そのうちの一本の木の根元近くに、見たこともない大きさのガガンボがとまっていました。体長は5cm、六本の肢をひろげた幅は10cmはありました。いままでにいろいろなガガンボやユスリカを見てきましたが、これだけ大きいのは初めて!!撮らずにその場を離れることはできません。 斑大蚊撮影日時 2016/04/13 8:23:43

こんな大物は日本最大級のはず、すぐ名前がわかるだろうと調べてみたら、思ったとおり簡単に「マダラガガンボ」だとわかりました。翅に斑模様があるので付けられた名前のようです。なおこの個体が大きかったのは、運よく(?!)雌の方だったのが幸いしたと、いろいろ検索してみてわかりました。
側面からの画像も撮っていますので添付しておきます。
斑大蚊@ 斑大蚊A
撮影日時 左:2016/04/13 8:24:41  右:04/13 8:25:14
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昭和の風景――広島平和記念公園で撮った写真・・・小足

4月10-11日、G7外相会合が広島で開催された。被爆地から核兵器のない世界を目指す「広島宣言」や、テロや難民問題などに連携して対応する共同声明を採択。さらには、各国の政治指導者の広島、長崎訪問を促す内容も盛り込まれた。参加首脳たちは平和記念公園の原爆資料館を訪問した後,原爆死没者慰霊碑に献花、その後、(ケリー米国務長官の提案で、)急きょ原爆ドームも訪れた。核軍縮・不拡散にG7は一致して取り組む姿勢を見せた。岸田外相は、被爆地広島で開催した意義を強調。(オバマ米国大統領の広島訪問はあるのか?)

広島平和公園m4.jpg写真上は、G7外相の原爆死没者慰霊碑献花後の記念撮影(外務省HPより引用)。セピア色の写真は、(1970年ごろ、)広島に出張したときに撮影したもの。ちょうどそのとき、小学生たちが野外写生会に来ていて、「原爆の子の像」の絵を描いていた。(折り鶴を捧げもつ少女のブロンズ像は高さ9mもあったから、一コマに収まらなかった。)
        *
(撮影した写真から思い出すこと)
わが社(かって勤めていた会社のこと)の関係会社の一つに工作機械メーカ(KK社と略記)があった。数ある機種(旋盤、ボール盤、中ぐり盤、フライス盤、研削盤など)の中でも、横中ぐり盤に特化していた。ときはすでにNC工作機械の時代で、NC制御盤には富士通ファナック(ファナックと略記)のものが圧倒的に使われていた。というより、ファナックに牛耳られていた。ユーザもファナックのNC制御盤を採用することを要望していた。工作機械メーカからは「NC工作機械を一生懸命に売るけれど、ファナックを儲けさせてやってるようなものだ」と、愚痴も聞かれた。
そういう状況下にあって、KK社からわが研究所へ新規の研究開発案件 ― 横中ぐり盤の「びびり制御」と3軸の位置ぎめ測長に「レーザー測長器の応用」はできないだろうか、という依頼があった。
私は上司に呼び出されて、「君はレーザ光の干渉実験にも精通しているし、大学では機械(工学科)専攻していたから、工作機械のこともよく知っているだろう。そこで、KK社からの依頼案件の研究開発の支援と指導をやってもらえないだろうか」と、おだてるようなことを言われて、私を担当に指名するのであった。「某月某日、横中ぐり盤をM社の広島製作所へ納入することになっているから、見学しておくのもいいだろう」ということで、私は広島に出張することになった。

出張当日の私は、KK社の社員ということにして、現地を訪問した。横中ぐり盤は、すでにM社工場の指定の場所に設置されていて、仕様性能が出ているかをチェックしているところだった。とくに工作機械の位置決め精度は重要で、テーブルを前後・左右、主軸ヘッドを上下に往復移動させて、精度をチックしていた。測長には、ゲージブロックをつぎ足して使用していたが、長尺の測定だから、その使い方には熟練を要した。
一方、M社の担当は、HP社のレーザ測長器をもってきて、その位置決め精度をチックした。その操作はいとも簡単であった。M社の担当は、その出力データをわれらに見せて、「仕様精度が出ていない」とクレームをつけた。(頑丈にできた工作機械とはいえ、長距離の搬送で微妙にくるったのだろうということだったが、)KK社は、現場で工作機械をばらして組み立て直す決定をした。その作業は何日か要するということであった。KK社にとっては不名誉な事態であった。

私が見学したいことは午前中ですんだので、午後はずらかって平和記念公園を訪ね、モニュメントや資料館を見学したのだった。(そのとき撮った写真の一部を添付した。)




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2016年04月19日

春の蛾・合体・・・末光

4月10日(日)林縁の坂を下るときは気付かなかったのですが、折り返し点からの帰りしな登っていて、草に白いものが貼りついているのでなんだろうと近づいてみたら、白色の蛾が合体しているのが確認できました。この白い蛾はいままでに何度も見たことがありましたが、合体は初めてのことだったので撮っておいたのが下の画像です。 ヒトリガ 撮影日時 2016//04/10 9:08:24

この蛾の名前は調べれば簡単にわかるだろうと、ヒトリガ科のどれかだというのを手掛かりにしていろいろ検索してみました。その時点でわかったのはよく似た紛らわしいものとして、「アカハラゴマダラヒトリ」と「キハラゴマダラヒトリ」のどちらかだということでした。どちらもクワの葉が幼虫のときの食樹であると出ているし、たしかに見た場所のすぐ近くに数本のクワの木があるのです。なお合体したのが貼りついていた草は「スイバ」です。そして画像の左側の大きいのが雌で、少し小さい右のが雄です。念のため。
その後すぐこの蛾の名前はハッキリしました。というのが12日(火)の夕方、林縁の上にある中学校のブロック塀で一匹の白い蛾を見つけました。折角なので撮ったあと指でつついてアカハラかキハラかを確認させてもらいました。結果は赤でなく黄であるのがわかりました。よってあの合体していたのは「キハラゴマダラヒトリ」と同定することができました。
画像では赤か黄かは判別しにくいかもしれませんが、単独での「キハラゴマダラヒトリ」も見ておいてください。なお、この個体の雌雄は定かではありません。
ヒトリガ@ ヒトリガA
撮影日時 左:2016/04/12 16:29:01  右:04/12 16:29:16

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初見の日々・・・末光

急に暖かくなりいろいろな生き物を目にするようになりました。花見(4月3日)でアマガエルを見て、4月8日には夕方の散歩とき、次の二種類に出会いました。いずれも今年初見です。
先ずはシロコブゾウムシです。公園のアカシアで毎年見かけるのですが、やっと新芽が芽吹きはじめたばかりなのに、早速どこからか出てきました。シロコブゾウムシはどんな変態をするのか知らないのですが、自分が見るのはいつも成虫の姿ばかりです。アカシアの太い幹をどんどん登っていました。気づかれるとその時点で落下し擬死するので、初見ではあるし近づかず、少し離れた位置からワイドで撮りました。
シロコブ 撮影日時 2016/04/08 16:38:32

次は毛虫です。これはアカメガシワの新芽がきれいなのを眺めていて見つけたものです。出てきたばかりの若葉が、早くも虫食い状態で穴が開いているのに気付き、これはおかしいと思い裏を探してみたらいたのが毛虫でした。よくよく見たらまだ葉の表面に、のんびりしているのが見つかったので撮っておきました。(アカメガシワを食樹にしている幼虫をチェックした限りでは、この毛虫はクワゴマダラヒトリという、蛾の幼虫の可能性大です)
赤芽柏 撮影日時  2016/04/08 16:53:34

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2016年04月11日

高度成長時代の大阪の風景 ― 路面電車「阪神電鉄・北大阪線」・・・小足

大学院時代、大阪市内に住んでいたこともあって、市電で通学したこともあったが、高度成長時代もすすんで、自動車の急激な増加で市内の交通は渋滞し、市電はじゃまものあつかいされる始末で、1960年代後半から1970年の大坂万博(EXPO70)開催までの間に、市電路線は次々と廃線になって、市内の交通手段は地下鉄へと移行していった。今となっては、市電通学は自分史に残るユニークな体験であった。

就職して最初の6年間(1960年代の後半)は西宮市に住んで、阪急電車(神戸線)で梅田を経由して職場に通っていた。電車が淀川を渡り、中津駅を通過すると、平行する国道176号線を路面電車がノロノロと走っている姿がよく見られた。(話の種に)一度は乗車しておくのもいい体験になるのではないか、とおもうのだった。そんな感慨をいだきながら時は過ぎていったが、(1970年に開催する大阪万博をひかえて、)市電路線が次々と廃線となっていたことから、発奮して、1968年3月某日、この路面電車の写真を撮りに行くことにした。

梅田界隈でこの路面電車の停留所を見たこともなかったので、その名称も経路もまったく知らなかった。当時の地図をいま見直しても、関心がなければ気がつかない路線であった。阪神野田と天神橋6丁目(略称、天六)の間4.3kmを走る阪神電鉄の路面電車「北大阪線」であった。そして1975年に廃線となって、地図からも消えた。
        *
閑話。私の若いころの趣味の一つは写真で、銀塩モノクロフィルムは自分でDPEもやっていた。生活感のある写真を撮るのをモットにしていたから、鉄道マニアが撮るような写真は撮ってない。
時間をついやして写真を撮ってきたのであったが、DPE処理は、いまどきのデジタルカメラでの写真処理のように簡単にはいかない。ネガフィルムから印画紙に焼き付ける暗室での作業は目も疲れるし、時間もかかってめんどうくさくいのである。先送りしているうちに、写真のことも、その所在も忘れてしまっていた。それから何十年が過ぎ、デジタル化技術がすすみ、またプログのような公表する場ができて、撮影した風景がリバイバルすることになったわけである。パソコンに読み込んだデジタル化された写真をズーミングして有用な情報をさぐり、往時をふりかえっている。
        *
北大阪線の路面電車が見えるところまで行くつもりで、大阪駅東側から国道176号線に沿って北上して行くと、高架橋の建設工事中であった。(写真に写っていた)標示板に「芝田町高架橋、施主・大阪市土木局、施工・大林組、駒井鉄工所」と描かれていた。資料を参照してわかったことは、長さ338mの高架橋建設工事で、完工は1969年とあった。(町名「芝田町」は、現在の住居表示では、芝田1、2丁目と改称されている。)

阪神北大阪85.jpg
(写真上) 国道176号線の芝田町から北方を望む。T字型橋脚は、(芝田町)高架橋の建設工事中であることを物語っている。左端に見えるビルは済生会中津病院。背景に阪急電鉄の高架が見える。右手の人物は、交通整理からもどってくる警官。
(写真中) T字型橋脚に掲げられた標示板に「芝田町高架橋・・・」とある。写真撮影年の証拠の一つである。市内の交通はラッシュである。写真右端に、カーブしている路面電車が見られる。
(写真下) (望遠レンズで、)国道176号線の芝田町付近から中津方面を望む。写真中央に見える路面電車は北大阪線。路線は、画面右方に曲がって、阪急電鉄線の高架をくぐり、天六方面へ向かう。写真左は、工事中の芝田町高架橋(国道176号)。背景は、国鉄(JR)梅田貨物線をまたぐトラス橋。(偶然のチャンスだったのだろうか、前方に危なっかしい姿の自転車通行人が写っている。)

その後: 大阪駅北側のめぼしい土地・建物は、大阪鉄道管理局ビルと梅田貨物ヤードくらいのもので、裏さびれたような地区であった。その後、国鉄は分割民営化されてJRとなり、大阪鉄道管理局ビルは取り壊され、その跡地はヨドバシカメラが落札して、2001年11月22日、関西地区1号店が開業した。その影響は大きかった。南の日本橋電気街(でんでんタウン)の客足は大幅に減少し、閑古鳥が鳴く店舗が続出するというさびれようだった。一方、梅田貨物ヤードは大阪駅周辺で最後の一等地であるといわれ、その先行開発区域には、グランフロント大阪が2013年4月にオープンし、街並みは一変した。

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2016年04月09日

花見と雨蛙・・・末光

今年は桜が早かったようです。4月3日(日)朝のんびりと近場の桜並木を散策してきました。桜を見ていたのですが、なぜか目に飛び込んだといううか、目がそこへ引きつけられたというか、桜の木にしては異質なものがあるのに気がつきました。桜の幹の色と同色の冬ごもりから出てきたアマガエルでした。ちょうど高さがころあいであったのと、初見だったので両側面から撮ってみました。
桜道雨蛙@撮影日時 2016/04/03 9:36:18
桜道雨蛙A撮影日時  2016/04/03 9:36:42


折角なので勝手知ったる近場の桜なので、上から目線での花見もしてみました。そのときの画像も添付しておきます。ソメイヨシノの桜並木に一本だけ白い花が咲く木があり、そこをねらって撮ったものです。真っ盛りの桜を下からと上からと満喫できた朝でした。
染井吉野撮影日時 2016/04/03 9:42:55

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2016年04月07日

ブログ・十年目の記念日…末光

(平成18年開催)大津同窓会の幹事諸兄と、当ブログ管理者のハカリゴトからスタートしたこのサイトも、気がついたら十年目を迎えることになりました。管理者にはいろいろと指導していただき、こうして節目の日を迎えることができたのを、自分ひとり勝手に喜んでいます。

このブログがスタートしたとき自分は、たしかパソコンでいろいろとネットサーフィンをして楽しんでいました。そんななかでインターネットがこれからの生活に役に立ちそうだと思い始め、それなりにPCに親しみかけていた時期でした。
で、自分ではホームページとかブログを開設する気はないけれど、それらも面白そうだし興味は大いに持ちつつ、タダタダ見ているだけでした。でも当ブログが立ち上げられ、パソコン画面で実際に目の当たりにしたら、できれば何んとか参加したい気持ちになりました。でも実際どうすれば参画できるのか訳がわからず、諸兄が次々に投稿しているのを注意深く、読んでいくしかありませんでした。そのうちになんとなく参加方法がわかり、自分も投稿することができるようになったのは、半年以上のちの11月中旬になってからでした。

それからは先行諸兄の投稿にコメントしたり、自分の身の回りのことを報告したりして、今までボツボツと投稿してきました。その間管理者には、なにかと手数を煩わさせてきたこともありましたが、指導よろしきを経ていまに至っております。
これからも身の丈に合った事柄について、あれこれ投稿していく積りでおります。もうこの歳になると、よっぽどの誤字・脱字・変なかな使いがないかぎり、あまり気にしないことにして、当ブログの管理者が終了宣言するか、当方がダウンするかの二者択一と決めております。
なにはともあれ、こうして十年目が迎えられたのは投稿ししてきた人と、それを温かく見守りすばやく処理・掲載する管理者が居てこそだと思っています。それとこのサイトに関係があるなしにかかわらず、アクセスしてくださっている見知らぬ人がいるのも忘れてはおりません。どうかこれからもよろしくお願いいたします。単なる投稿者の一人としては、少し出しゃばりすぎたかも知れませんが、ご寛容をねがいます。
では十周年を記念して、「卒業50周年記念同窓会」以来ひさしぶりに一首

  同窓の検索ツールが起動した四月七日はブログ記念日

付記:十年ということに関して思い浮かんだのが、「十年一昔」「十年一日」という言い回しでした。それと先日の新聞のクロスワードに、「期間は十年が一般的です」というヒントがあり、埋めてできた答が「クセツ」というものでした。
ついでに上記の記念短歌(?)の(今ではもう懐かしい)本歌を記しておきます。

  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  俵万智

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2016年04月04日

昭和の大阪 ―― 大川の風物・・・小芦

全国にある城(天守閣)の2015年度の年間入場者数が公表されていた。大阪城は、230万人を突破して過去最多を記録、その40%は外国からの観光客だという。一方、大改修を終えて1915年3月から一般公開した姫路城は、白すぎ城≠ェ評判になって、入場者は280万人と急伸してトップに躍り出ていた。
1960年代に撮影した姫路城の写真が手もとにあったので、その今昔の姿をくらべてみた(昨春4月10日のプログ)が、今回は、大阪城の写真を取り出してきて、昭和の大阪をしのぶ。(私が撮影したモノクロ写真は、20歳代後半(196年代後半)に撮影したことがわかっている。)
        *
大阪城は、大阪市のシンボル的存在であるが、私の青年時代の日常生活の背景にあった。大学院時代をすごした(旧)阪大工学部キャンパス(都島区東野田)から、大阪城は近い距離にあった。また就職して、(西宮市に住んで)寝屋川市にある職場への通勤では、京阪電車の車窓から大阪城がよく見えた。通勤定期券だから気軽に途中下車して、天満橋駅や京橋駅界隈で遊興し、大阪城公園を散策しては歴史をしのんだものだった。

添付写真(左)は、大阪城の写っている写真の中からから選んだ。大阪城は遠景で、目印みたいなものであるが、注目したのは、大川(旧淀川)の風物詩にもなっている(競技用)ボートを漕ぐ訓練の光景と、背景に写っていた時代を感じさせる煙突のある妙な工場である。気になって、(ボートに注目して撮った)右の写真を拡大してよく見ると、工場のタンクに大阪精錬所≠ニ表記されていることを見つけた。大川沿いとはいえ、大阪市内のこんな場所に、精錬所があるなんて思いもよらないことであった。(大川沿いの桜ノ宮公園は、文字通り桜の名所であることから、何回も通ったことがあるが、一企業の古い精錬所になどに興味がなかったので記憶に残らなかったのであろう。)

資料を調べると、大川沿いにある大阪アメニティープラザ(略称OAP)の敷地は、もともと三菱金属鉱業(現在名は、三菱マテリアル)の大阪精錬所であったことがわかった。当工場は1989年に閉鎖され、その跡地にOAPタワー(高さ176m、39階)&プラザビル、帝国ホテル大阪(117m、24階)、ギャラリー、マンション、公園などの複合施設が開発されたこともわかった。

大阪城xy.jpg

つぎは撮影場所の特定である。OAPは大川の西側の河畔にあることから、添付写真は大川の東側の桜ノ宮公園から撮影していることになる。しかし、大川が毛馬洗堰からまっすぐ南下しているとすると、添付写真のように大阪城が遠景に写ることはない。不思議である。謎解きの問題のようにあれやこれやと考えた末、大川は南下しているが、まっすぐではなく、東側にふくらむように湾曲している所があるのではないか、と推理した。地図を広げてみると、湾曲の推理は当たっていた。大阪城天守閣とOAPを直線でむすぶ延長線から推測すると、(JR環状線の桜ノ宮駅のすぐ南側にある)源八橋に近い場所から撮影していたことがわかった。(今は高層ビルが建ち並んで視界をさえぎっているので、往時に見えた大阪城を見ることはできない。)

以上で、添付写真の解説ができる情報がえられた。昭和の大阪を懐旧するのにいい写真の一枚ではなかろうか。

付記:  大川(旧淀川)は、淀川の分流口にあたる毛馬洗堰から南下し、桜の宮・天満近辺で西に大きく曲がって、中州の中之島の東縁で分流して、中之島の南側を流れる川を土佐堀川、北側を堂島川とよび、島の西縁で再び合流して、安治川と名を変え、大阪湾に注いでいる。中之島は大阪市の中心街である。




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2016年03月31日

H28・3月末日のツチイナゴ・・・末光

今日は年度末で棚卸の日だったよな〜、というのがチラッと頭をよぎります。散歩に出かけようと玄関ドアを開けたら、網戸に何かとまっているものが・・・おおなんとそれはツチイナゴでした。
冬になってどうしていたのか、それとなくツチイナゴに出会えないかと思って過ごしてきましたが、こうして春本番寸前に見つけることができたのはうれしい限りです。暖かくなったのでモンシロチョウをあちこちで見かけるようになっていたので、このツチイナゴも長い越冬生活から抜け出る気になり、こうして日当たりのよいところで体を温めているようでした。
土蝗3月晦撮影日時 2016/03/31 8:05:08

散歩から帰ってもそのままじっとしていましたが、昼前にのぞいたら見えなくなっていました。これから先またどこかで、元気なツチイナゴに出会える季節到来です。

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2016年03月28日

「ツバメ」「燕」・・・末光

ツバメはだいたい春の彼岸ごろに渡って来ていたと思っていましたが、最近ではそれより少し早く目にするようです。今年も市の中心部を流れる川の橋を渡っていた3月10日、10羽ぐらいが飛んでいるのを通りすがりに見ました。その後も時たま見ることはありましたが、高い位置にとまっていたりしてうまく撮ることができませんでした。
そんな3月25日の朝の散歩時、民家(元農家)の庭先の電線に一羽のツバメがとまっていたのでチャンス到来と思いました。とにかく出来るだけ近づいて、青空をバックに撮ろうとして構えたら、もう一羽が納屋の軒下から飛んできて並んでとまってくれました。その瞬間を撮ったのが下の画像です。たぶんこの二羽が番いになるのだろうと想像しています。

燕撮影日時 2016/03/25/8:20:29

それはそうと、ツバメは電線にとまっているいるのが当たり前みたいですが、電線がなかった昔は何にとまっていたのかな?、と不図考えるてみることがあります。
以下ツバメについての忘れられない思い出です。
親戚へ遊びに行っていたとき、なぜか風呂場に入り込んで外へ出られなくなったツバメがいて、それを逃がすため一度だけ手に掴んだことがあります。初めてツバメを手にしたのですが、そのときの驚きというのはどう言えばいいか、全くというかほとんどというか重さを感じないくらいだったのでした。あれだけ飛び回り窓際でばたばたしていた生き物が、こんなに軽い・か細い物だとは信じられない思いをしたことが忘れられません。
それとそのとき居た父方の祖母に 「人の匂いがついたツバメは、ヘビが狙いに来るんよ」 と言われたのが忘れられません。そのときは「可哀想なことをしたなあ〜、でも仕方なかったし」と思いましたが。
いま考えてみると、ツバメはたいせつ益鳥なので大事にしなければならない、むやみに手を出したりかもうてはいけん、というメッセージだったのだろうと思い返しています。



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2016年03月27日

葛に絡まれた桜・・・小足

今年も花見のシーズンがやってきました。わが家の近くにある千里中央公園にも桜があるので、見物客でにぎわいます。でも最近、残念なことに、枯れたり老衰したような桜の木が目立つようになりました。(市の公園課がまめに手入れをしないのも一因でしょう。)桜だけではありません。松の古木も松くい虫にやられて、もう20本、いやもっと多く切り倒されました。楢の木も害虫にやられて枯れ死しています。繁殖力のあるのは、孟宗竹や笹、夏に目立つクズ(葛)です。

当公園には、体育館、展望台、野外舞台、回遊庭園などの施設のほか、もとからあった池や雑木林や竹林、里山の雰囲気もあちこちに残っているのですが、長年にわたってほとんど手入れをしていないので、植物間の生存競争をみるような見苦しい姿をさらけ出しているところがあります。始末のわるいのはクズです。つるを伸ばして樹木に絡むと、上へ上へと巻きつきながらのぼっていき、天辺でテントを被せたように葉で覆いつくすので、絡まれた木の枝ぶりはむちゃくちゃになり、枯れ死もして無残な姿です。(できれば、助けてやりたい気持ちになります。)下地には陽が差し込まないから、うっそうとした藪になるのです。年とともに、クズの茎は木質化して太っていくので、取り除くのはますますむつかしくなるのです。つるに絡まれた高所の枝木を傷めずにつるを取り除くのは、便利な道具もないので、おいそれとできるものではありません。(クズの苦情は、各地で出ているようです。)
とくに、石組みモニュメント「あほんだら獅子」(彫刻家・流政之氏、47歳の時の作品)の周辺の急斜面は、(転倒もするので)手入れがむつかしく、うっそうとした藪になってしまっているのです。ここにある桜は、夏はクズの葉っぱで覆いつくされて、陽も当たらないから衰弱していて、花もろくに咲かせられないのです。
(厄除けのモニュメンは、散歩コースの標点にもなっており、また見学に来る人もいます。およそ70段ある階段を上って来て、たいていの人は獅子頭を見上げ、周囲を見やりながら一回りして行くのです。周辺をきれいにしておきたい、わけです。)

リタイアした有閑人の私は決断して、誰もやらないクズのつるを取り除くことにしました。昨年の9月ごろから、週に数回、午後のひと時を、ガーデニングの七つの道具をさげて、急斜面の藪に入り込んで、雑草や笹を刈り、枯れ枝を切り落とし、下地を整地してきれいにしました。木に登っては、高所のクズのつるを取り除きました。これは厄介な作業です。長さ3メートル、ときにはもっと長い竹竿の先にノコギリを巻き付けて、これで高所の枝に巻き付いたクズのつるを切断し、竹竿のフックで引っ張って取り払ってきたのです。

藪をきれいにしていると、さっそく野鳥(鳥名はよくわかりません)が飛んできて、きょろきょろするのです。その理由はよくわかりませんが、ありがたがっているようで慰められました。作業はまだまだつづきますが、手入れした桜の木は、(開花が遅れているようですが、)今春はきっと花をいっぱい咲かせてくれることでしょう。

クズと桜3.jpg(写真上)もりソバ≠フように繁殖している葛のつる
(写真中) 葛に巻き付かれた桜
(写真下)「あほんだら獅子」と(葛を取り払った)桜、背後の建物は体育館




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2016年03月25日

「ツグミ」・「鶫」・・・末光

ツグミという鳥を知ったのは、高校生のときでした。その当時カスミ網でツグミが、大量に捕獲されているのが問題になっていたからです。シベリアから渡ってくるツグミを、能登半島の先端で・・・ということを、たしか聞いたように覚えています。それからウン十年、自分にとっては冬が近いことを告げる渡り鳥として、目印のひとつになっています。
毎年この辺りに渡ってくるのを初見するのは、10月下旬ころからのようです。そして当分の間は各種の木の実を求めて、団体行動しているようですが、季節がボツボツ春になりかけるとバラけて、単独行動するようになります。すると各個体は地上にそれなりの縄張りを持つようになり、散歩していると大体同じところでツグミを見かけます。
立春をすぎると地面をつついて地中の小動物(ミミズなど)を探しているらしく、この時期「ごみさがし」と言われることもあるようです。これは多分北帰行に備えるための栄養摂取であろうと思っていますが・・・ そんな時期なので通りかかっても余り逃げていかず、下に示すような近くの公園での画像が撮れました。また今年も冬告げ鳥として、渡ってきてくれることでしょう。
ツグミ@ ツグミA
左:2016/03/08 16:23右:2016/03/21 8:26

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2016年03月23日

昭和30年代は「エンジニアの時代」・・・小足

■ 補記
シリーズ「昭和30年代はエンジニアの時代(24)(2016/02/18)の「むすびとして」に、――
(日本のものづくりの視点からいえば、)日本の高度成長に直接大きな役割を果たしたのは、製造メーカー、そこで働くエンジニアであったともいえるが、ひるがえって、高度成長は何のためだったかといえば、豊かな生活のためで、その高度成長の恩恵にあずかったのは、とりわけ主婦ではなかったかと思う。
「戦後、強くなったのは靴下と女性」と俗言にあったが、男女平等が憲法で保障され、女性の地位は相対的に高くなったが、口で唱えるだけでなく、新製品・新商品によっても援護されるところとなった。・・・・・・と書いたが、

高度成長時代以前、つまり昭和20年代、(私は少年であったことから、)日本の婦人がどんな状態にあったのかはよく知らない。ということで、なにか心残りになっていた。また現在、政府は女性の社会進出をさかんに奨励しており、少子化対策上からも夫の家事・育児参加が欠かせないという指摘もあるが、日本男児は家事・育児をしないこと世界一、というかんばしくない調査結果もあるようで、家庭での夫の役割、家事分担はどうあるべきか、が問われている。一考して、ひとこと付け加えておきたいと思う。
        *
資料ページをパラパラめくりしながら、何かいい話題はないものかと思案していたら、下記の記事に出くわした。(69年前の新聞記事だから、全文を転記しておく。)

■朝日新聞・天声人語「色も香もない主婦生活」(昭和22年4月7日)
家庭の主婦ほどみじめな存在はない。試みに手をごらんなさい。どこの家庭でも、男の手の方がやさしくて、主婦の手は松根っこのように、節くれだっている。マキを割る。(井戸の手押し)ポンプを押す。石鹸のない洗濯をする。生木のマキで煙にむせる。髪はよごれる。リュックをせおって人に嫌われながら殺人電車で買い出しにもゆく。いくらかでも子供によけいに食わせるために自分は食事をひかえめにする。全く色も香もない生活である。本はおろか新聞を読むひまもない。頭は年がら年じゅう食べ物と燃料のことをはなれない。それも昨今にはじまったことではない。もう何年来のことである。家庭の主婦が政治にアイソをつかすのも無理がない。
台所の電化でボタン一つ押せば三十分くらいで食事の支度ができ、主婦も教養や娯楽や身だしなみの時間の余裕をもつ。そういう時代はいつくるのか。憲法で、婦人の解放、男女の平等は保障されたが、今のところ空証文を渡されただけで、バスに乗る権利はあっても、かんじんのバスが動かないのと同様である。民主主義の活字をいくら造っても、家庭生活の民主化がなければ、民主主義は身に付かない。家庭生活の民主化は、台所地獄からの女の解放である。
家庭の主婦を、少しは身ぎれいにする政治に一日も早くお目にかかりたいものだ。(引用の終わり)
        *
昭和30年代の日本の高度成長は、女性解放にも大きな貢献をしたことに、日本男児として気をよくしたわけである。しかし、家事や育児に消極的で協力してきたというわけではなかった。相変わらず「男は仕事、女は家庭」という男女の役割分業観に支配されていた。仕事熱心(エンジニアや研究者、あるいは会社幹部に多い)はいいことではあるが、家庭を無視していると、その報いは、(会社での地位という権威の傘もなくなり、家庭にあってはゼロベースからの出発になる)リタイアー後、(あるいは高齢者になって)受けることになる。家事をやることは生活力を高めることだとこころえよ。(自戒の念をこめて)。
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2016年03月21日

一十百千万・・・末光

一日一回は笑う
 これについては大体実行できていると思っています。
 深読みと邪推も交えたギャグやジャダレで、同居高齢者に受けていると自負しています。(笑)

一日に十人と会話する
 これも散歩中に出会う人と挨拶をし、登下校の小中高校生と「おはよう」「こんにちは」と声を交わすことで何とかクリアーしています。

一日に百字は書く
 毎日その日のことを手帳にメモしているので、これについては問題なしと考えます。でも書けない漢字がドンドン増えているのが悩みの種です。よっぽどのことがない限り辞書は引かず、ひらがなで済ませていますが・・・

一日に千字は読む
 朝起きて新聞を一面のコラムから読みはじめ、次に最終面から順にさかのぼって読んでゆきます。そして気になる見出しについては目を通しています。
 それとたいてい何かの本を読んでいるので、全然問題なし!

一日に一万歩は歩く
 毎日八千歩以上を目標にして、朝と夕方の散歩をしています。オーバーすることもあるので平均すると何とかクリアーしていると思っています。
 でも時たま古傷が悲鳴を上げ掛ける気配を感じ、無理をできないときがいつ来るか気にはなるところです。>

以上は新聞の投書欄に掲載されていた表題に賛同したので、それに対応する自分の日常を対比してみた結果です。

なお表題に関して調べたらつぎのような言い方もあるようです。

***一日に一万歩「歩く」、一日に千文字「書く」、一日に百回「深呼吸をする」、一日に十回「笑う」、一日に1回「誉める」のが心身の健康法。

***一日に一万歩き、一日に千文字読み、一日に百文字書き、一日十人の人と会話し、一日一回大笑いする>

***人が一日の行動で心掛ける、「一読・十笑・百吸・千字・万歩」ことです。




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2016年03月14日

昭和の風景―― 天日塩田(2)・・・小足

海水(塩分濃度は約3%)から塩をつくる日本の伝統的な天日製塩法は、製造コストが高くつく。この問題を新規の製造法で打破しようと目論んで開発されたのが、塩田のいらないイオン交換膜濃縮製塩法であった(1965年)。専売制度のもと、この最新の製造法は全国の7社に認可された。加えて、これ以外の方法で、海水から製塩することが禁止された(1971年)。そして同時に、天日塩田業の転廃業がすすめられた。それから四半世紀後の1997年、ついに専売法は廃止され、製塩業は自由化されたのだった。

わが家が料理で使っている塩のことを尋ねると、天日塩≠ナ、海水のにがり≠ほどよく含んだ塩だからいいのだという。包装袋のPR文を見ると、「伯方の塩」と書かれていて、「自然の風と太陽熱で蒸発結晶させたメキシコ、あるいはオーストラリア産の天日塩を輸入して、日本の海水で溶解・ろ過して煮詰め、結晶化した塩を屋内でゆっくり自然蒸発させてつくっている」とあった。またエネルギーコストのかからない製造法である、ともうたっていた。
        *
昭和の瀬戸内の風景について思いめぐらすと、広大な塩田のほかに、初夏に白一面の爽やかな風景を供してくれる除虫菊(白花虫除菊)畑があった。除虫菊は蚊取り線香の原料で、農家の換金作物であった。沿岸や島のやせた段々畑の有効活用で、一石二鳥の効果をもつ作物であったが、化学合成品に取って代わられて、消えていった。
(地方再生には、農業の活性化が欠かせない。土地が有効に活用される農作物、いわば第二の除虫菊が出現することを期待したい。)

地場産業の盛衰の一例を、香川県が全国に誇った天日塩田製塩業にみてきたわけであるが、隣の徳島県には、かって繁栄をもたらした藍があった。昭和の話題というわけではないが、この機会に、阿波徳島の藍について、参考資料を拾い読みして、短くまとめてみた。

■ 藍
江戸時代から明治の終わる頃まで、阿波徳島の誇れる物産は藍であった。阿波で藍づくりが盛んになるのは、蜂須賀氏の入封以後のことである。吉野川中下流一帯は、連作をきらう藍の栽培に適し、また藩の統制と奨励もあって、全国生産の大半を占めた。寛政2年(1790年)には6500町歩(約6500ヘクタール)もあった、と記されている。藩の石高は25万7千石(淡路8万石を含む)だが、藍師や藍商から取り立てる租税で、実質45万石とも、55万石ともいわれた。(司馬遼太郎『街道を行く32,阿波紀行・紀ノ川流域』、今谷明『戦国三好一族』に記されている。)「阿波25万石、藍50万石」の信憑性はともかく、藍は莫大な富をもたらした物産であったことは間違いない。
(注記: 藍でもうけたのは藍師や藍商で、農家はあまり潤わなかった、ようである。幕藩時代、特産の藍作を奨励しても、米作をおろそかにしてはいけない。阿波藩はもともと米の生産は不足していて、諸藩から輸入してまかなっていたのだから、実高50万石というのは?である。)

藍作は明治以降も盛んに行われ、全国的には明治36年(1903年)に最高の生産規模になった。徳島県の生産量は、全国の1/4占め、全国一であった。しかし明治後期からは、安価で使いやすい化学合成染料の輸入が急速に増大し、手間暇と熟練を要する藍による染色は衰退の一途をたどった。除虫菊と同様、化学合成製品に完全に負けたのである。
(資金力のある藍師や藍商のなかには、新事業に進出していったものもいたが、その後の結果をみると、地場産業はおろか、郷土自慢できるような産業も誕生しなかった。徳島県にとって、残念なことであった。)
県下の藍作は細々とは続いていたようであるが、昭和41年(1966年)には4ヘクタールにまでに激減していた、とある。民芸品用途をまかなうレベルの栽培である。・・・ただただ、春の夜の夢のごとし。

塩菊藍

写真の上左は宇多津塩田(『岩波写真文庫182香川県、昭和31年』)、写真右は高見島の最盛期の除虫菊畑(「除虫菊の家」の展示写真)、写真下は「藍玉作り作業図」(『江戸時代図誌21南海道、筑摩書房、昭和51年』)



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2016年03月07日

昭和の風景――天日塩田・・・小足

■ 製塩
 瀬戸内の塩づくりは古くから行われていたことが、沿岸の遺跡から出土した製塩土器から推測できる。また万葉集には「塩焼き」のことが歌われていて、どんな方法で塩づくりをしていたかがほぼわかる。

「朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人おとめ」(万葉集、巻6−935)
(朝凪に海藻を刈りとり、それを天日に干して、夕凪に焼いて塩を採る海人おとめ)

私の推測も混じっているが、万葉当時の塩づくり―― まずは、海藻(藻塩草)を採ってきて、塩づくり用の砂場に広げて干す。つぎに、くみ上げてきた海水を藻塩草にかけては乾かす作業を何度もくりし、砂場の塩分を濃縮させる。一日中働いて夕方ごろになれば、藻塩草を焼いて灰にし、砂場表面の灰と砂をかきあつめて、かん水容器に移す。上澄み液を加熱容器にとって、燃料を燃やして水分を完全に蒸発させると、(藻塩とよばれていた)塩ができる。

男でも重労働である塩づくりを万葉の女性がやっていたのだから、ただただ驚くばかありである。効率的で大規模な製塩法は、江戸時代になって開拓された「入浜式塩田法」からはじまる。
       *
昭和30年代ごろまで、香川県が全国に誇る産業は製塩であった。江戸時代の後期、久米栄左衛門(1780−1841)が開拓した入浜式塩田をきっかけとして、高松・坂出・宇多津・丸亀・詫間・仁尾などの西部の海岸に広大な入浜式塩田が開拓されていった。

 塩田の仕事(浜曳き・撒潮・かん水採)は早朝から日暮れまで続く。相当な重労働であるが、専売制度のおかげで製塩業は活気づいていた。1955年頃の香川県には製塩工場が32もあって、専売塩の1/3を生産するほどになっていた。(1955年の生産高は172,936トン。最高は、1959年の327,186トン。)

製塩法も進歩して、昭和30年代になって、労力10分の1、生産量2〜3倍という流下式塩田(風で水分を飛ばす枝条架を併設)が導入された。しかし、専売制度のもとで過剰生産を招き、塩業整備臨時措置法に基づいて、約2000ヘクタールの塩田が廃された。それでも、コスト高の国内製塩は見直しを迫られ、新方式のイオン交換膜濃縮製塩法が導入された(1965年)。製塩業は装置産業へと変貌し、天日塩田は不要になったのである。依然としてコスト高の日本の製塩は転廃業をよぎなくされた。
広大な塩田の跡地は、やがて工業用地や新興住宅地に姿を変え、塩田は完全に姿を消した。そして1997年4月、92年間続いた塩専売制度は廃止された。 ・・・ただ春の夜の夢のごとし。

塩田風景4.jpg

写真の説明: カラー写真上は、(1960年代中頃に撮影した)予讃線宇多津駅停車中の列車の窓から見た風景。プラットホームの花壇の向こうに塩田の枝条架が見える。 カラー写真下は、稲積山(標高407m)から見た2010年現在の仁尾町・蔦島方面の風景。中央右に仁尾港と塩田跡地(約5000m2)に再開発された公共施設や住宅が見られる。島は、観光・レジャーの蔦島、遠方は荘内半島、はるか遠方は塩飽諸島。天気がよければ瀬戸大橋も見える。
モノクロ写真左は、入浜式塩田で働く人びと(『岩波写真文庫182、香川県』、昭和31年)。 写真右は、廃業した塩田跡地で遊ぶ子どもたち(『朝日グラフに見る昭和の世相、昭和33,34年』)。



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2016年03月05日

閏日の杉・・・末光

2月29日(月)朝、ラジオ深夜便の「誕生日の花」と「花言葉」を寝床で聞いていたら、誕生日の花は「スギ」と言っていた。そのこと自体は、何度かカレンダーを買って見ていたので知っていました。そうだったとよなと思いながら、でも2月29日生まれの人はいるんだろうが、その日で戸籍に登録している人はどれくらいいるのかなぁ〜。と考えていたら花言葉と、いつもアンカーが言う肝心の「今日お誕生日をお迎えの皆さん、おめでとうございます」については、上の空で聞き忘れてしまいました。

スギと聞けば「花粉症」を連想するような昨今です。でも自分はそういう反応はしないで来たかわりに、スギと聞いたら「杉の実鉄砲」を想い出してしまいます。ちょうどゴム動力の模型飛行機作りが流行っていた、小学校高学年の頃だったと記憶していますが、その竹ヒゴと笹竹を利用して作った「杉の実鉄砲」でよく遊んだものでした。たしか当時杉の実を口に含んでいたはずなんですが・・・。そのほうが素早く弾込めができるし、水分があるので空気の圧縮に効果がある、ということだったのではないかと思います。
いまでもこんな遊びをしているのかどうか?あのころは肥後守があれば、それで笹竹を切ってきて竹ヒゴを準備して、自分の気に入るような「杉の実鉄砲」を各々が作り、それを持ちより遊んだものでした。
こんなことを考えたり思い出しながら朝刊を読んでいたら、「閏日」の文字が紙面に出ていました。それで今日という日は4年に一度だし、次を待つこともあるまいと思い、ぜひとも近場の杉を見に行って、デジカメで記念に撮っておこうと思い立ちました。
昼すぎまでは何やらかにやらで出かけられず、夕方になりかけた頃になって、やっとちかくのこじんまりした杉林へ行くことができました。そこでいろいろな思いを込めて撮ったのが下に貼り付けた代物です。あまりこんなのは目にしたくない、という御仁もあろうかとお察しいたしますが、上記お含みの上よろしくお願いします。
閏日の杉 撮影日時  2016/02/29 16:03:43

以下私ごとの蛇足になりますが、ちょうど2月29日(月)に図書館から借りてきた小説を、いま読み進めているところです。その女主人公の姓が「藤田」で、名が「杉」となっています。偶然といえばそうですが、こうして重なると私的セレンディピティではないかと勝手に思っています。
その本とは、佐藤 愛子 著 『晩鐘』 文藝春秋 です。

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2016年03月02日

春直前・冬の蛾「シロトゲエダシャク」・・・末光

2月28日(日)平年なら2月の末日、まずまずの天気で春近しの感じ、朝の散歩で中学校の法面で見つけた蛾です。冬の蛾発見!と思い撮っておきました。
シロトゲエダシャク撮影日時 2016/02/28 9:06:25

すぐそばにある高校の河津桜が、五分咲きになっているのを確認し、それから土筆のその後を見に行くのに坂を下っていたら、ウグイスの初鳴き(初期鳴きで、ホーもケキョもはっきりしない)を耳にしました。土筆は思いがけないほどたくさん頭を出していたので、入れ物もないのについ片手に持てるだけ摘み取ってしまいました。(これは夕食の一品、玉子とじにしてもらいました)
まえおきは以上で、蛾の名前については例によってネットで検索したら、「シロトゲエダシャク」と判明しました。春先に成虫になる蛾のようで、すこし早い気がしないでもないですが一応安心しました。もうすこしこの蛾について調べていたら、画像の個体はオスだとわかりました。メスは翅が退化しているとのこと。画像検索したらその姿は見ることができます。でも実物に出くわしても、それと分かるかどうかいまのところ全然自信はありませんが・・・。
これで思い出したのが蓑虫です。たしか蓑虫のメスは、その一生を蓑の中で過ごすというのを何かで読んだ記憶があります。それとこの冬尺蛾も、ある意味似たようなところがあるようです。虫の不思議な生態については、ナカナカ興味がつきそうにありません。

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2016年03月01日

昭和の風俗―― 男性の下着・・・小足

下着を買おうとおもって、衣料品売り場を見歩いていると、「申股」というビラが目にとまった。見慣れない漢字だったので、すぐには読み取れなかった。どんな商品だろうと、近寄って見てみると、ニットのパンツの類であった。しばらくして、今年の干支は「申」であったことを思い出して、「さるまた」に間違いないと確信した。
しかし、いまの大人に読めるのだろうか。「猿股」と書けば誰でも読めるだろうけれど、それでは猿の赤いお尻を連想して感じ(漢字)がわるい、ということだろうか。しからば、仮名で書けばいいのではないか。・・・と自問してみるのだった。

(下着の)パンツといえば、私は、中高年になってからはブリーフ≠やめてトランクス≠ノかえた。その理由は、ニットのブリーフは肌に密着するから、とくに夏になると、汗でむれるのである。肌に纏わりつかない平織りのトランクスの方が通気性もよく、汗も乾きやすくて気持ちがいい。自宅では、柄物のトランクス姿でくつろいでいる。ブリーフ姿では、家族から文句が出て、こうはいかない。(ステテコでもはかないといけない。)

ついでに、幼少年の頃のことを思い返してみた。ブリーフ≠竍トランクス≠ニいう言葉は使われていなかったとおもうが、夏は、ランニングシャツとパンツで遊び回っていた。男子は、もよおすと、男性専用の小便器の前に立ってするが、戸外では立ちションをしたものだ。このとき、パンツを下にずらしてしただろうか。(丸見えになって恥ずかしい。)パンツの片方の股口を中央に引っ張って、股口の間から出してしたようにおもう。ということは、前とじのルーズなパンツだったのではないか、とおもうわけである。
父や祖父については、夏の下着のことしかわからないが、父は申股に半ズボンをはいて仕事をしていた、ようにおもう。祖父は、越中褌(ふんどし)だった。明治10年(1877年)生まれで、酒呑みで汗をよくかいていたので、汚れた褌だけは自分で洗濯していた。祖母にさせるのは気がひけたのだろう。

褌といえば、ぼくらの少年時代は、さらしの六尺褌を締めて泳いだものだ。高校体育の水泳では、「君たちの褌の締め方はぶざまだ」といって、教官がきれいな締め方まで教えてくれたことが記憶に残っている。(高校を卒業してからは、海水パンツであった。)
褌姿は、今では、神事くらいにしか見ないが、それに異様さを感じるようになった。

男性下着3種.jpg
添付写真は、通販の商品カタログから拝借した。左から、申股(グンゼ)、ブリーフ(グンゼ)、トランクス(POLO)である。見ればわかるから説明は省く。付け加えるとすれば、申股とブリーフはニット、トランクスは平織りである。(売り場で確認してみたところ、ニットのトランクスもあるようで、分類定義はあいまいになっている。)


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2016年02月29日

休耕田で太陽光発電・・・末光

町内の灌漑用溜め池の下方に、緩やかな斜面につらなって棚田が拡がっています。アナログのカメラを持っていた頃、休日にはその中の一本道をたどりながら、いろんなものを写していました。定年後デジカメにしてからも当分の間、その棚田でいろんな動植物が季節によって変化するのを撮りながら、たくさんのことを勉強させてもらいました。
それがいつごろからか年を追うごとに、田圃だったのが畑になったり耕作放棄地になったりし始めました。そして一昨年の後半からそんな所が、太陽光発電用地として生まれ変わりはじめ、今年のはじめには下の画像の如く、変貌してしまいました。
棚田撮影日時 2016/02/24 16:12:40

これからもこうしたことが引き続きおこるのかどうか、予断を許しませんが、自分としては段々と近づきにくい場所になってしまいそうです。もう元の棚田に戻ることもないだろうと思うと、懐かしい風景や想い出までが自分しか知らなかったこととして失われるのが、なんともいえない心地がしています。
有為転変といえばそれまでかもしれませんが、日本はどこへ向いて行っているのか?フト年寄りの繰り言、乃至は老婆心めいたことを思わずにはいられない心境です。
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2016年02月25日

H28年・ユキワリイチゲ(雪割一華)・・・末光

近所の花にについて、同じような内容になって恐縮ですが、このユキワリイチゲについても何度か投稿しています。雪割と名がついているので咲いていて当然だろうと2月21日、車で5分少々のところにある自生地へ見に行ってきました。晴れ晴れの天気なら申し分ないのでしょうが、でも思いのほかたくさんの花が咲きだしていました。ちょうどこの日その気になってよかったと思いながら、あれこれ撮ったのを下に並べます。
H28雪割一華@撮影日時 2016/02/21 15:09:16
H28雪割一華A撮影日時 2016/02/21 15:10:49
H28雪割一華B撮影日時 2016/02/21 15:11:02
H28雪割一華C撮影日時 2016/02/21 15:12:07

はじめてこの場所を見かけたときは、枯草の葉っぱや幹がゴチャゴチャしたところで、なんとか頑張って咲いていました。その後地域の有志のお陰で整備されたのが、3年くらい前からだったと記憶しています。いまでは道路沿いに10数メートルにわたり、見事な群生地となっているのを、有り難く眺めさせてもらっています。
なお車の通行に邪魔にならぬよう、現場へ行ったら即側溝へ入りこんで撮るようにしています。

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2016年02月24日

昭和の風景・・・小足

添付写真は、1960年代に撮影した冬の大阪(河内)平野。稲株の残ったままの田甫が広がっている。雪の日の景色とはいえ、寒々とした雰囲気が漂っている。(地球温暖化がよみとれる。)耕作は稲作だけで、裏作はしていない。やがて休耕田も出現する。(減反政策は1970年代から始まった。)近郊農家は兼業も多く農業に熱心でなかった、ようにおもう。土地の値上がりを待っている、といううわさをよく耳にした。高度成長時代に宅地化がすすんで、写真のような風景はもう見られない。

昭和冬景色3.jpg

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2016年02月23日

平成28年・河津桜 ・・・末光

河津桜についても、何回か投稿してしてきたような気がします。近くの高校の校門を入ったところにあるのが、すこしピンク色になって、咲きかけているのは先日見ていました。それで2月20日(土)に当ブログをチェックしてみたら、去年は蕾を3月8日に撮り、咲いた花を3月17日に撮影したのをそれぞれ投稿しています。
ということは去年よりも今年は、相当早く咲きだしたということがわかり、ちょうど折よく雨も上がったので、取り急ぎその日の夕方寄ってみました。そのとき撮ったのが下の画像です。
H28河津桜撮影日時 2016/02/20 16:21:01

近場のことですが梅にしろこの桜にしろ、今年は去年に比べて相当の早咲きと言えそうです。本場の情報をネットで確認したら、伊豆の河津桜も今年は例年より一週間早く咲きはじめたようで、いま現在が見頃の真っ盛りのようです。

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2016年02月20日

ツクシ・土筆・horsetail ・・・末光

ツクシについてはもう何度も投稿していますが、やはり季節の話題の定番として定着しているので・・・。今年もということです
たしか1月の終わりか2月のはじめだったと思うのですが、「静岡でツクシを見つけた」というのをラジオで聞きました。さすが太平洋の恵みを受ける温暖な地は、早いんだと思いつつ、当地ではいつごろになればお目にかかれるかなと、近場のツクシのことが思い出されました。
それからしばらくは寒かったり、雨が降ったりでツクシのことは忘れていました。2月18日に散歩していて、朝から天気がよいのでヒョット思い出し、今日はツクシを見てみようといつもの折り返し点を通り越して、毎年見ている棚田のところへ行ってみました。
しばらく探したらポツポツ見つかりました。さすがにまだ様子うかがいの先発メンバーといったのが、顔をのぞかせていました。その初々しい姿を下に示します。
スギナ@ スギナA
撮影日時 左:2016/02/18 8:47:29  右:02/18 8:49:49

当ブログで確認したら、去年は2月16日に撮っているようです。するとツクシの出方に関しては、それほど早い遅いはないと考えていいようです。

ツクシを英語で何というのか知らなかったのでついでに調べたら、
和英辞典:tsukusi つくし〖植〗a horsetail 
英和辞典:horsetail 1馬の尾 2〖史〗馬尾旗《昔のトルコの軍旗 3〖植〗トクサ
と出ていました。尚、そのむかし〜#〜つくし誰の子スギナの子〜#〜と歌ったことがあろうかと思いますが、ツクシはスギナが春に出す「胞子茎」のことを指しての名称。よってツクシは俗名で、植物の種名としてはスギナ(トクサ科)が正式名。(スギナが子孫を残すための花の部分がツクシだと・・・知ってよかった!)
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2016年02月18日

手書きで「確定申告」・・・末光

従来どおりボケ防止のため手書きで提出すべく、資料がそろってからとりかかりました。ことしから下書きしたらそれが正しいかどうか、ネットで確認できると知ったので、楽な気持ちでやりはじめたちょうどその日(2月10日)、国税庁ホームページが何者かに攻撃され使用不能になった、というニュースが流れました。

翌日には復旧したので、国税庁のサイトにアクセスしてみました。省庁のホームページを見ることはあまりないので、トップページの項目の多さに目移りしマゴマゴしましたが、なんとか目的の項目にたどりつき、多少もたつきながらもデータを入れて結果を見たら、自分のした下書き計算も正しいとわかり、我ながら安心しました。
定年退職以来、年中行事のひとつになっているこの作業、結果を提出用紙に清書し添付書類を糊づけし、こうして作成した確定申告を初日の2月16日に無事提出してきました。
まあ自分のは申告と言っても、年金と健康保険の関係だけなので、今後もボケ防止も兼ねて、年ごとにいろいろ変化しているのを確認しながら、手書きでの提出をできるだけ続けてゆきたいと思っています。

なお資料を読んでいたら、平成28年分の確定申告書から個人番号(12桁 マイナンバー)が必要となる、とのお知らせがありました。
これからマイナンバーについても勉強しておかないと、慌てる場合が出てきそう!!


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昭和30年代は「エンジニアの時代」(24)・・・小足

女性向けの新商品で、大ヒットしたもの、その影響や効果が大きかったもの、またその時代を代表するものとして、「ナイロン・ストッキング」と「生理ナプキン」を選んだ。前者については前々回に解説した。今回話題にする「生理ナプキン」は、広告文を借用すれば、「ほんとうに、どうにかならないものかしら・・・すべての女性が毎月考える生理のわずらわしさ」から解放してくれる救世主のような新商品であった。

男性がナプキンを使うのはレストランで食事をするときくらいのものであるが、女性では、生理のときに使うナプキンもあることから、彼女らにとっては馴染みの単語である。
女性が密かに身につける生理用品のことを男性が話題にするのは気が引けるが、私が生理用ナプキンのことを知ったのは、高校生のとき(1950年代の後半)で、家にあった英語の雑誌の広告で見たのが最初であった。(雑誌名は『サタデー・イブニング・ポスト (Saturday Evening Post)』でなかったかとおもう。あるいは、シアーズ社の通信販売用のカタログであったかもしれない。)もちろん英語 (sanitary napkin)である。当時の私に、衛生ナプキンの広告文を理解できるほどの英語力はなかったが、推測もはたらかせて、どうにか理解できていた。
つぎの遭遇も本だった。大学生であった1962年の春、小田実の『何でも見てやろう』を読んだときであった。彼の文明論や文学論はむつかしくて読み飛ばしたが、読者サービス的な話題には興味をもって読んだことで、トイレやビデやナプキンのことが記憶の断片として残っていた。今回のために、文中から探し出して再確認してみた。(参考までに、抜粋して付録に記す。)青年小田実も話題にしていたことを前置きして、本題にはいる。

アンネCM

■ アンネ・ナプキン
広告文にある「40年間、お待たせしました」の意味は、アメリカでは、1921年に、キンバリー・クラーク社から紙製のナプキン「コーテックス」が発売されて、今日(1961年)で40年になる。いまでは85%の婦人がこのタイプの製品を愛用しているが、日本女性は、いまだに脱脂綿(と月経帯)を用いている、とのことである。(それはもれる・むれる・かぶれる≠ネどの欠点だらけ。どうにかならないものかしら、という潜在的な声はあった。)

ナプキン包装箱の中身がどんなものなのか、気になるところである。広告文によれば、紙パルプのやわらかい紙綿のクレープを特殊加工した薄い脱脂綿でくるんだ、やわらかな肌ざわりの生理用品で、コンパクト、かつ吸収力にすぐれ、衛生的で水洗トイレにも流すことができる、と説明がある。

 かってはタブー視されていたメンスとその処理方法が、アンネ・ナプキンの広告により、陰湿なイメージを払拭して、女性のごく自然な生理現象として認識されるようになったわけで、女性の心理面に与えた影響も計り知れない。
いまのテレビで、――ナプキンの吸収力をデモするようなものや、有名な女性タレントが、ナプキンを手で撫でてその肌ざわりの感触をうったえるCMを見るにつけ、開放的になったものだと実感する。

関心のある市場規模については、適切なデータが入手できないのでここに書けないが、日本のナプキンは世界一の品質を誇り、欧米やアジアに輸出されているようである。

■ むすびとして
日本の高度成長に直接大きな役割を果たしたのは、製造メーカー、そこで働くエンジニアであった、ともいえるとしてきたわけであるが、ひるがえって、高度成長は何のためだったかといえば、豊かな生活のためで、その高度成長の恩恵にあずかったのは、女性、とくに主婦ではなかったか、と思う次第である。
「戦後、強くなったのは靴下と女性(の地位)」と俗言にあったが、男女平等が憲法で保障され、女性の地位は相対的に高くなったが、口で唱えるだけでなく、新製品・新商品によっても援護されるところとなった。

「家電三種の神器」といわれた炊飯器、洗濯機、冷蔵庫、それにプロパンガスが家庭に入ってきたことだけでも、家事業はどれだけ便利で衛生的になったかは計り知れない。かっての主婦は朝早くから、そして夜は遅くまで台所で家事にいそしんでいたが、主婦の居城の台所は炊煙ですすけ、(流しは)じめじめしていて、蝿が飛び回り、ゴキブリが這い回っていたのだ。家電製品のおかげで、ばかでかいカマド、煙をだす薪は不要となり、おのずと台所・食堂は改造されることなるが、公団のダイニング・キッチンは、あこがれのモデルとなった。
衣分野では、合成繊維、合成化学製品が登場したことで、便利で、ファッション化して華やかになった。食の分野では、簡単にいえば、洋食化がすすんで、米の消費が減少していった。

年ごろの女性は、「カー付き・家付き・ババ抜き」(1960年の新語・流行語)の新家庭の夢を描いていたが、(好意的に解釈して、)来るべき「マイカー(時代)」「マイホーム(主義)」「核家族(化)」と置き換えてみると、時代の先よみであったことがわかる。日本は高度成長時代をへて、生活のベースである衣食住、ライフスタイルに劇的な変化、変革がおこったのだった。

■ 付録 『何でもみてやろう』の生理ナプキン
アメリカ人の語学下手は定評がある、私と私のマダム≠ヘフランス語のほんの片言を解したから、それだけでも、ずいぶんと人助け、いや、アメリカ人助けになった。道に迷って途方にくれてるやつを無事ホテルへ送りとどけてやったこともあった。語学のことだけではない。トルコ風<gイレットに直面して、これいかに使用するのか困却しているお嬢さんに、使用法を教えてやったこともあった。もっともこれは私のマダム≠ェ教えたのである。もっと困ったことがあった。私とマダム≠ヘ、英語でいうところの「サニタリ・ナプキン」を、薬局へ買いに行くお嬢さんのお供をしたことまであった。お嬢さんはフランス語にかけてはまったくのオシであり、マダム≠烽ミとりでは心もとないというのでついて行ったのだが、あんなにうらはずかしい思いをしたことはついぞなかった。マダム≠燻р焉uサニタリ・ナプキン」にあたるフランス語が何たるかを知らず、「ソレハ女性が月々ニ使用ヲ余儀ナクサレル何モノカデアッテ・・・・・・」とうぐあいに、二人でしどろもどろになりながら説明してゆかねばならなかったのである。 (付記: 私の「マダム」とは、知り合いになった婦人のこと。)

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2016年02月16日

はじめての「真冬日」・・・末光

すこし前のことです。投稿が遅れてしまいましたが・・・自分としては生まれて初めて、真冬日というものを体験したことについての報告です。

大寒になってからのことですが、今年は何十年に一度と言われる記録的寒波が予報され、そのとおり南下したため、比較的暖地である当地も1月24日(日)には真冬日になりました。
情報としては数日前から何度も言われていたので、雪も積りそうだし低温と強風注意報も出たりしたので、それなりの対策はしておきました。と言ってもカーポートの支柱出しと、水道検針ボックス部の凍結防止、それに屋外にある物品の飛散防止くらいのことですが。
結果は雪が積もりそれがなかなか解けないので、三日間外へ出てなにかをすることができない状態でした。おかげで散歩もままならず、歩数計のカウントも三日間合計で七千歩ちょっとという不甲斐なさでした。

こんなことで外に出られなかったというか、出る気も起きなかったのは歳のせいもあるとはいえ、初めてのことでした。でも特段の被害もなく、無事に通常の生活に戻れたのは良かったのですが、・・・
そのときの当地のアメダスの記録では、24日の朝方の温度がマイナス 5.2度 (08時17分)・深夜マイナス 6.0度(23時43分)で、最高気温は マイナス 0.9度(00時19分)というものでした。25日は最低マイナス7.9度・最高プラス4.2度で、26日は最低マイナス1.4度・最高プラス6.6度でした。

こんな状態で三日間が過ぎていきました。そしてその後気が付いたのはつぎのようなことでした。


紅梅が咲いて二週間以上遅れて白梅も咲いていたのですが、この寒さと雪のため雄しべと雌しべが傷めつけられ、茶いろく変色していました。せっかく早咲きをしてくれたのに残念無念ということになってしまいました。
その後の散歩途中キチョウを一匹見つけたのですが、そのとまり方がどうも不自然なので、そっと触ってみたらそのまま身動きしない状態。そしてまた別の場所でも同じようなキチョウを目にしました。この冬いままでに三匹のキチョウに出会ったのに二匹はあの寒さの犠牲になってしまったようです。
なお私見ですが、この二匹は最初に見た個体より、明らかに小さい個体なので雄だと思われます。まあ雌でなくてよかったと思うことにしました。
もうひとつは柿の実についてです。去年は表年ということでたくさんの実がなり、みごとに熟れて鈴なりのまま年を越して、殺風景な山裾のいい彩りになっていました。が。
あの三日間が済んで散歩していたら、その柿の実にヒヨドリ・メジロ・ツグミが、入れ替わり立ち替わり群れて来ていました。そしてあれだけ有った実が、ものの二・三日の間にきれいさっぱり無くなってしまいました。見てはいないのですが、雪の降りしきるなか寒いさなかにも、エサを求めて来ていたのだろうと思われます。
そしてその痕跡であるおびただしい「柿の種」が、歩道のコンクリの上に残っています。いまは散歩のたびにそれをみつめながら、踏まないように通りすぎています。
以上ですが遅ればせの投稿の〆として、直近の紅梅と白梅の画像を貼り付けておきます。近くを通るといい香りがしています。
紅白梅撮影日時 2016/02/15 8:39:43

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2016年02月09日

昭和30年代は「エンジニアの時代」(23)・・・小足

■ 半袖のYシャツ「ホンコンシャツ」

▼テトロン
ナイロンのつぎに工業化された合成繊維(略して合繊)は、イギリスの化学者J.R.Whinfield とJ.T.Dickson によって、1941年に発明されたポリエチレンテレフタレート(PET)繊維である。テレフタール酸とエチレングリコールからポリエステルをつくり、これを溶融紡糸してつくった繊維である。のちに、ICI社 (imperial Chemical Industry) が特許を譲り受け工業化し、「テリレン」という商標名をつけて、1950年から量産を開始している。

この合繊に注目した帝人と東レ(社名は現在名を使用)は共同で、ICI社から製造技術を導入して、1958年半ばから生産を開始した。1957年の新聞広告に、
「石油から生まれた新しい繊維 私の名はテトロンと決まりました」
と新製品をPRしている(『世界の故事・名文句事典』(自由国民特別号、1961年)の「戦後キャッチフレーズ名作集」。なお、デュポン社は「ダクロン(Dacron)」の商標名で、1952年に生産を開始している。(繊維メーカーの)倉レ、東洋紡、日レも、1962年頃からポリエステル系繊維の生産を開始し、共同商標を「エステル」と称した。競合する後発メーカーは当然異なった名称をつけるが、当時の私たちは、「テトロン」を一般名称のように用いていた。のちに多種多様の合成繊維が商品化されるようになって、テトロンでなくPET繊維、(学術的な分類で、)ポリエステル繊維とよぶようになった。

テトロンも、ナイロンと同様、衣料用繊維のほか、産業資材、建装用などの用途で幅広く利用されているが、ここでは衣料用繊維のはなしである。
テトロンは、強くて伸びにくく、張り・腰の強さをもち、型くずれしにくい(形態安定性)。どくとくのシャリ感がある。乾きが速いウォッシュ・アンド・ウエア(Wash and Wear)のすぐれた特性をもつ。吸湿性はなく、静電気を帯びやすい。染色性はよくない(特殊な染料と染色法を要す)。
もとの素材の短所や欠点は後加工で改良することができる。その方法の一つに、混合紡糸(混紡)がある。テトロン糸をステープル(綿状の短繊維)にして、綿(cotton)と混紡(T/C混) して生地にすると、吸湿性や風合いが向上する。(Yシャツ生地では、テトロン40%、綿60%の混合比率が一般的である。)

▼キャッチコピー
テトロン繊維をPRしたキャッチフレーズは、上記のほかに、1958年は「ラフに洗ってタフに着る」、1960年の「快適デありますデス」も選ばれている。
1961年5月の「ホンコンシャツ」の新聞広告が人気をよんだ。広告のキャッチコピーを流用すれば、「スリムなシルエットが爽快、ネクタイOK、上着OK、フォーマルでスマート」

帝人は「ホンコンシャツ」、東レは「セミスリーブ・シャツ」を売り込んでいたが、ホンコンシャツの健闘が目立った。素材メーカー、紡績、デザイナー、アパレルが一丸となって新企画を展開した成果である。
商標「ホンコンシャツ」の「ホンコン」は香港のことである。
「香港のビジネスマンは袖を短くしたワイシャツに、きちんとネクタイを結び、いかにもオフィスの雰囲気に合ったスタイルで、さっそうと働いている」というイメージである。名付け親の石津謙介氏(アイビールックなどのトレンド仕掛け人でもあり、VANの創設者)は、1961年夏の帝人の社報に、ネーミングの由来を書き残している。

 イギリス統治下の香港におけるビジネスマンのイメージである。(私は、1971年に、ガイド付きの香港観光をしたことがあるが、「ホンコンシャツ」のイメージはわかなかった。)
香港のビジネスマンのことはともかく、むし暑い夏を過ごす日本のビジネスマンにふさわしい夏のシャツとして考案されたものである。デザインのはたした役割も大きかった。

▼シャツの値段
「ホンコンシャツ」が売り出されたのは、1961年5月であった。翌夏のことになるが、新宿・三越デパートの中元大売り出しの新聞広告(1962年6月22日)にシャツの売価が載っていた。
(参考までに付記すると、1962年の銀行の初任給(大卒)は1万9000円である。)

盛夏のご通勤に・・・・・・暑さを忘れたようないつも端正な身だしなみ!
お手入れも簡単なクールタッチのスラックス、カッタシャツをいろいろとりそろえて・・・・・
●おしゃれなヤングマン好みのカッタシャツ(テトロン混紡)・・・1200円
●半袖カッタシャツ
   テトロン綿混紡 1000円、 テトロン麻混紡 1300円、
   テトロン麻混紡・ストライプ柄 1500円
●紳士スラックス
   テトロン・レーヨン 2200円、 テトロン・ウール 3300円

        *
大学時代(1960-64年)の写真を見返して着ていた服装を見てみた。ホンコンシャツ姿の写真は一枚もなかった。ビニロン混紡の学生服を常用し、服の下にYシャツを着ていた。素材はナイロンと綿の混紡であった、と思う。暑くなってくると、Yシャツは腕まくりしていた。夏は、開襟シャツか、ポロシャツを着ていた。

ホンコンシャツを着たのは、会社勤めをするようになってからのことである。(就職した会社と職場は、大学院での所属研究室の教授が顧問をしていた繊維会社の研究所であった。「行ってみないか」と薦められて、あっさりと承諾して、入社したのだった。研究所では、繊維の物性・構造の研究をしていた。)
通勤は、阪急電車と地下鉄と京阪電車を乗り継いで、しかも大阪のセンター街の梅田と淀屋橋を経由するから、だらしない服装では恥ずかしい。Yシャツにネクタイを締め、背広を着込んで通勤した。初夏になると、Yシャツからホンコンシャツに着替えてネクタイも締めた。通勤ラッシュで暑苦しくなると、背広を脱いだ。ホンコンシャツのほうが、快適で便利であった。
ホンコンシャツは社内の売店で買ったものだ。もちろん自社製の生地を使用している。わが社は、東レや帝人からテトロン(ステープル)を仕入れ、混紡して布に織って、アパレルなどへ売っていたのだ。

のちに「ホンコンシャツ」とはいわなくなったが、夏シーズンなると、ホンコンシャツ由来の半袖シャツにネクタイを締めたビジネスマン姿がすっかり定着していた。

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2016年02月01日

昭和30年代は「エンジニアの時代」(22)・・・小足

■ ナイロン製ストッキング
かって勤めていた繊維会社の研究所仲間や知人の中に、化け屋(化学系研究員)になった動機に、「石炭と空気と水から合成され、クモの糸よりも細く、鋼鉄よりも強い新しい繊維」というナイロン繊維のキャッチフレーズに刺激を受けて、自分も挑戦してみたくなったことをあげる者が何人かいた。

世界初の合成繊維となるナイロンが発明されたのは1935年のことで、デュポン社の有機化学研究所の部長であったW.カロザース(Wallace Hume Carothers, 生没年1896−1937)によってなされた偉業である。
(うつ病だった彼は、その2年後に自殺している。合成繊維のパイオニアに対して、本人没後63年目の2000年になって、アメリカ科学振興協会は彼を表彰している。)

ナイロンも、人絹(人造絹糸の略称、レーヨンのこと。メーカーには帝国人造絹糸(帝人)、東洋レーヨン(東レ)、日本レーヨン(日レからユニチカ)、倉敷レーヨン(クラレ)など、多数あった。)と同様、絹の代替市場を目ざして開発された新繊維である。絹といえば、戦前の日本の生糸の最大の輸出先はアメリカで、生糸輸出の約70%を占めていた。主用途は女性用のファッション・ストッキングであった。

デュポン社のナイロンの工業化は1938年から始まったが、最初の商品は歯ブラシの毛だったという。本格的な応用商品として、ナイロン製ストッキングを1940年の5月15日に全米で発売した。用意した400万足は、あっという間に売れたと、いわれている。(のちに、5月15日を記念して、「ストッキングの日」とした。なお、日本での「靴下の日」は11月11日である。)
デュポン社は、この一年足らずの間に300万ドルも売り上げたとあるが、その後は、1941年12月、日本の真珠湾攻撃から日米大戦が始まり、軍需優先となって、生産は減少することになる。大戦が終わると、盛り返して、5年後の1950年には、絹製ストッキングは、ナイロン製に完全にとって代わられた。この激変は、日本の生糸の輸出にとって大打撃であった。また日本国内では、洋装化が急速にすすんだことで、生糸の需用は激減していく。そして養蚕業は衰退した。(各地に点在する桑畑に往時の名残を見ることができる。)
        *
「戦後、強くなったのは女性と靴下」という俗言があった。(その出所は、ひ喩の上手な大宅壮一氏ともいわれている。)強くなった靴下≠ニは、ナイロン製ストッキングのことを指していると思われるが、ナイロン製が日本で売り出されたのは1952年のことになる。

その年の新聞広告「マダムジュジュのオシャレ講座」より引用する(添付上図)―― 
「ナイロン靴下は足のハダが丸見え‼」と大見出しを打って、
「絹の靴下は足を美しく見せましたが――ナイロンの靴下は、かえって醜く見せることがわかりました。それというのも、あまり透きとおって足の肌が丸見えになるからです。アレ肌のブツブツがそのまま見えてしまって、折角の身だしなみが、それだけで台なしになるのです。・・・」と、女優・木暮實千代の講釈をつけて、コールドクリーム「マダムジュジュ」の販促である。

ナイロンの靴下は、あまり透きとおって足の肌が丸見え≠ノなるので、コールドクリームで足の肌の手入れをしましょう、ということなのであるが、論理がおかしくて、笑えてた。(アレ肌はストッキングに関係なく手入れすべきであろう。)
ナイロンなどの合成繊維は、より糸の綿糸などとは異なって、もともとは無色透明のモノフィラメントである。染色しても半透明色。(必要なら、不透明化できる。)透けて見えるといえば、ナイロン製のブラウスで、下のブラジャーが丸見え(シースルー)のあらわな姿で通勤する女性をたびたび目撃した。)

ストッキング

●東レは、独自の技術でナイロン6(アミラン)の生産を1951年に始めたが、デュポン社に特許権侵害で提訴され、資本金1億5千万円の東レは、10億円を超えるという特許実施権料を支払うことになる。しかしその権利のお陰で、東レは輸出市場を確保でき、飛躍的に発展することとなった。1963年から64年にかけて、帝人、鐘紡、呉羽紡(東洋紡と合併)、旭化成もナイロ6の生産を開始するが、その用途として、ナイロン・ストッキングなどの靴下の需要拡大が大きな貢献をはたした。

●スットッキングの変遷をごく簡単にみておこう。初期のナイロンストッキングは、平面に展開された編地を継ぎ目(seam)で筒型に縫い合わせ、成型後染色していた。局所のほころびが伝染するように走る(runという)欠点が話題になった。伝染したソックスを履いているのを見ると、何だかわびしい感じがした。修理してもらって、履いていた女性もいたようである。
次は、最初から筒状に丸編みした継ぎ目のないシームレス・ストッキングである。国産のシームレス編機が開発され、本格的に販売されるようになったのは、1961年のことである。シームの心配がいらなくなって、多くの人に愛用されるようになり、1963年ごろから全盛時代を迎えた。
1960年代後半からは、ミニスカートの流行にあわせて、パンティ・ストッキングが急速に普及した。添付下図は、厚木ナイロンのシームレス・ストッキングの新聞広告である。
(次回は、ホンコンシャツ)

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2016年01月29日

ドイツの歌・・・Tajiri

数多くある世界の国歌の中でドイツの国歌は秀逸だ。さすが大作曲家ハイドンの作品だけのことはある。
原曲は神聖ローマ帝国皇帝に捧げられたハイドンの「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」で、ローマ帝国崩壊後はオーストリア・ハンガリー帝国、さらにワイマール共和国でも国歌として使用された。その後のナチスドイツでも国歌としても使用され、現在もドイツ連邦共和国の国歌である。歌詞は詩人ファラースレーベンの詩が充てられている。
ドイツ語の授業で森教授が「ドイツランド・ドイツランド・ユーバーアーレス」と言ったのを思い出す。歌詞は3番まであるが、ナチスドイツでは1番、ドイツ連邦共和国では3番が正式の国歌として使用されている。なお、同メロディは讃美歌194番にも取り入れられている。

https://www.youtube.com/watch?v=J3VNUjDLUH0

(1)
ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
この世のすべてのものの上にあれ
護るにあたりて 兄弟のような団結があるならば
マース川からメーメル川まで エチュ川からベルト海峡まで
ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
この世のすべてのものの上にあれ
(2)
ドイツの女性、ドイツの忠誠、
ドイツのワイン、ドイツの歌は古からの美しき響きを
この世に保って我々を一生の間
高貴な行いへと奮い立たせねばならぬ
ドイツの女性よ、ドイツの忠誠よ、
ドイツのワインよ、ドイツの歌よ
(3)
統一と正義と自由を父なる祖国ドイツの為に
その為に我らは挙げて兄弟の如く
心と手を携えて努力しようではないか
統一と正義と自由は 幸福の証である
その幸福の光の中で栄えよ
父なる祖国ドイツ
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2016年01月28日

冬・池・鳥・・・末光

団地下の池のまわりを朝夕歩くのが、ほぼ日課になっています。そんな冬のある日、池のスロープのところで見かけた、鳥たちのほほえましいひと時です。ここでいろんな鳥たちを見てきましたが、これだけ雑多な種類が一同に集まっているのも珍しく、ついカメラに収めました。
冬池鳥撮影日時 2016/01/20 10:38:54

写っているのはサギが二種類、カモが一種類の雌雄、そしてカワウです。画像の左側のサギはアオサギ、右の白いのがダイサギです。右下の二羽はカワウで、真ん中にいる五羽はヒドリガモ(雌2・雄3)です。
アオサギ・ダイサギ・カワウは、近くの営巣地からこの池にエサを求めにやってきた鳥たちです。ヒドリガモは冬の渡り鳥としてこの池に二十羽は棲みついています。
その他にマガモ・オナガガモ・ホシハジロ・キンクロハジロなどが、冬の渡り鳥として数はまちまちですが、この池で散見することができます。(ミコアイサ〈パンダガモ〉がここ2〜3年姿を見せてくれないのをちょっとさみしく思っています)

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2016年01月27日

ビヤンビヤン面・・・Tajiri

西安は唐の都長安。今でも旧市街は当時の街並みで、郊外には秦の始皇帝の兵馬俑がある。
シルクロードの起点として西域との交流が多かったから、回教徒(清真)が多く住んでおり、清真料理店が多い。その一つにビャンビヤン面というのがある。名古屋のきし麺の5倍くらい幅の広いラーメン。ビヤンという漢字は何と58画もある不思議な字だ。
面 面
面
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2016年01月22日

真冬の蛾「マエアカスカシノメイガ」・・・末光

1月18日(火)関東地方の雪のニュースで持ちきりだった朝、当地では雨も上がり散歩ができる天気となりました。それで出掛けたら公園のアラカシの幹に、白っぽいものを見つけました。
よく見たら濡れた幹にとまっている、あまり大きくない蛾でした。こんな寒い時期に蛾を見たことが、あったかどうか記憶が定かではありませんが、こんな白っぽい蛾を見かけたのは初めてです。
ということで撮って帰って調べてみることにしたのが下の画像です。
マエアカスカシノメイガ撮影日時 2016/01/18 8:27:50

ネットの蛾のサイトで画像を確認し、名前がわかったのでそれで検索したら、「成虫で越冬」と出ていました。これで同定しても間違いないと思いました。この蛾はマエアカスカシノメイガでした。
検索したところに「食樹はキンモクセイ」とあり、このアラカシの傍にたしかにキンモクセイがあります。それも二本、この木から別々の方向に10m弱のところに。それでこのアラカシに来ているのもナルホドと合点しました。
以上でこの蛾が、真冬の公園のここにいることに整合性があることがわかり、よかったです。冬のさなかにも昆虫がいろんな生き方をしているのを、こうしてまたひとつ知ることができました。(画像がもうちょっとブレてなければよかったのですが・・・。でもなんとか「マエアカ」と「スカシ」の感じは出ているので、良しとしてください)



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昭和30年代は「エンジニアの時代」(21)・・・小足

(昭和30年代、40年代当時に使われていた用語や新語・流行語を再確認するために、『現代用語の基礎知識』をめくってみた。)
昭和35年(1960年)度のことばの中に、「月給2倍論」という用語が収録されている。(当時のマスコミ界で活躍されていた)大宅壮一氏は、次のような解説をしている。――
「自民党の池田勇人が、昭和34年2月24日関西経済界人との懇談会で唱えたもの。その要点は、積極的財政経済政策をとって国内需要の増進をはかれば、生活水準は2倍にも3倍にも上がる、つまり生産性を上げていけば、それに伴って、賃金を今の2倍に引き上げることも可能というものである」と解説し、「現在、賃金水準はアメリカの9分の1、イギリスの4分の1、これを一挙に打破することは夢物語に近く、国民の泣きどころをついた政治家の無責任なことば。」と批評を加えている。

世間でも話題となった「月給2倍論」は、月給取り(サラリーマン)だけを対象にしているような誤解をまねくということで、第一次池田内閣の誕生のときに、「所得倍増」というスローガンに衣替えし、「(国民)所得倍増計画」として、1960年12月に閣議決定された。向こう10年間で達成するという長期経済計画であったが、日本経済は予想以上の高度成長を遂げ、実質国民総生産≠ヘ約6年で、国民1人当りの実質国民所得≠ヘ7年で倍増を達成したのだった。

1960年度の新語・流行語の中に、池田首相の「私は嘘を申しません」ということばも収録されているが、内外の政治経済情勢がはげしく変化する時代にあっては、長期予測が当たり、計画よりも数年早く達成されたことは(幸運な)奇跡であった。
(月給2倍論に関して、わかりやすい参考例として、国家公務員(大卒)の初任給と賞与をみてみると(本シリーズの第428回の添付データ)、1960年からの10年間で3倍、賞与は5倍になっている。まさに夢のような時代であったことがわかる。)
        *
昭和30年代は「エンジニアの時代」≠ニいう表題のもと、思いつくままにとりとめもなく約20回も書いてきた。話題の選択に迷ったが、どういう視点から見ればうまくまとめられるかを思案し思いついたのは、ハード・ソフト(硬い・柔らかい)という分類カテゴリである。
これまでに話題として取り上げてきた家電製品の炊飯器・せんたく機・冷蔵庫・テレビ、あるいは陸海空の交通運輸の範疇では、東海道新幹線、自動車、マンモスタンカー、国産旅客機、ロケット・・・みな金属を使ったハードな(硬い)構造物で、そのモノづくりに機械・電気系エンジニアが活躍した。
見方を変えて、生活の基礎的な要件である衣食住の衣に目を向ければ、それは身にまとうものだから柔らかい(ソフト)ものである。高度成長時代に登場した新規の衣料用の素材としては、(合成化学技術でつくられる)合成繊維・フィルム・プラスチックスがある。化学系エンジニアの出番である。
当時の新聞広告を引用しながら、(帝人の)ホンコンシャツ(東レのセミスリーブシャツ)と人工皮革の靴クラリーノ、女性ものでは、(厚木の)ナイロンストッキングと(アンネ)ナプキンを取り上げる。 (つづく)

シャツ靴05


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2016年01月20日

スズメ・雀・sparrow・・・末光

これはいつもとはちがう道を歩いていて、ぐうぜん目にした光景です。耕作放棄地の枯草の実をついばんでいたスズメの群れが、突然飛び立って傍の家の屋根に、勢ぞろいしたところです。たまに電線でズラッととまっているのを見かけたことはありますが、こんな構図は滅多にないと思い撮っておきました。
雀 撮影日時 2016/01/07 10:31:22

このままではわかりにくいので、画像の左半分と右半分を下に示します。
雀@

雀A

暇にまかせて数えてみたら、左側だけで七十羽はいることがわかりました。右の方は屋根の端が尻切れトンボになっていますが、びっしり並んでるので七十羽以上いると思います。そしてすこし後ろにもいるでしょうから、二百羽くらいの群雀だったのではないかと勝手に想像しています。

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2016年01月19日

欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか・・・Tajiri

YomiDr.というサイトから興味のある記事を見つけた。
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ヨーロッパの福祉大国であるデンマークやスウェーデンには、いわゆる寝たきり老人はいないと、どの福祉関係の本にも書かれています。イギリス、アメリカ、オーストラリアでも寝たきり老人はほとんどいないとのこと。一方、我が国の老人病院には、一言も話せない、胃ろう(口を介さず、胃に栄養剤を直接入れるため、腹部に空けた穴)が作られた寝たきりの老人がたくさんいます。

なぜ、外国には寝たきり老人はいないのか?
その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。

ですから日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。
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なるほど我々もそろそろそのような心構えが必要かもしれない。



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2016年01月18日

今年も出会えたキチョウ・・・末光

冬場は昆虫に出会うことも稀です。そんななかで正月早々カゲロウに会えたのは、さいさき良かったと思っていました。そして次に出会ったのは例の越冬キチョウです。
1月4日の朝、公園植え込みの傍を歩いていたら、この季節にすれば目立つ黄色が目につきました。近づいたら枯れ葉にとまってジッとしているキチョウでした。まわりのカタバミの葉っぱには霜が降りていましたので、冷えこみがあったと思われます。
黄蝶撮影日時 2016/01/04 8:30:38

このキチョウはここでこのままずっといるのかと、ひそかに期待して夕方の散歩で確認したらもういませんでした。前日の1月3日がいい天気だったので、どこかからあの位置へ飛んできて十分日光浴をし、元気になってどこかへいってしまったようです。
こうして毎年冬場にキチョウに会えるのは、虫撮り冥利のひとつと言ってよいかと思っています。




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2016年01月17日

今年の虫撮り始め・・・末光

今年も1月1日より虫撮りを始めています。さっそく出くわしたのはカゲロウでした。なんで冬にカゲロウなのか?よくわかりません。そういえば以前「真冬のカゲロウ」で投稿したことがありましたが・・・。
まあ下の画像のように、公園のヤマモモの木にとまって、正月の初朝日を浴びているのを見てください。
ヒラタカゲロウ撮影日時 2016/01/01 9:50:03

「真冬のカゲロウ」のときは、「アミメカゲロウ目」に属する緑色のクサカゲロウの仲間でしたが、今回のは「カゲロウ目」の地味な色のヒラタカゲロウの仲間です。カゲロウはトンボと同様、比較的早い時期に羽をもつようになった生き物だそうです。
この投稿をするのに調べていたら、フライ・フィッシングの疑似餌・毛鉤の原型にもなる今回の仲間のオスは、画像でわかるような独特の円い複眼をしていますが、これを「ターバン眼」と言うそうです。いまひとつこの仲間は、幼虫→亜成虫→成虫となる不完全変態で、羽のある亜成虫からもう一度脱皮して成虫になるとのことです。ターバン眼とか亜成虫とか、この歳になってはじめて出くわした言葉でした。

なお、去年まで自分は「虫撮り高齢者」を名乗っていましたが、今年からは「虫撮り後期高齢者」と名乗ることにあいなりました。この先これ以外の変更はもうないと思いますが、よろしくお見知りおきください。

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2016年01月13日

今年の紅梅・白梅・・・末光

紅梅・白梅について投稿したのが、昨年は2月の後半でした。今年も同じ木を見ていますが、暖冬ということで紅梅は早くも、1月1日には開花していました。でも白梅はもうしばらく待たないと開花しそうにありません。白梅が開花したら一緒に並べて投稿するつもりでしたが、待ちきれないので開花した紅梅とまだ蕾の白梅の画像を添付します。
梅@ 梅A
撮影日時 左:2016/01/01 16:13:17  右:01/11 8:39:31

去年の開花は、紅梅が2月17日で白梅が2月23日でした。
それからすると、今年の紅梅は気象条件その他により、40日超の早咲きとなったことになります。白梅はといえば去年は紅梅より一週間おくれであったのが、今年はたぶん二週間はおくれるようです。
これから寒さが続きそうなので、そんな予想をしています。(1月12日夕方見てきましたが、白梅はこの画像と大差ありませんでした。紅梅はもう開花したのが20輪以上ありましたが・・・)
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2016年01月10日

昭和の風物詩 ― 「ポン菓子」・・・小足

(正月早々から(負の遺産といわれる)公害問題を話題にするのは気がひけるので先送りして、今回は昔懐かしい「ポン菓子」のはなしである。1960年代に撮った写真も残っていたので、昭和風物詩として書いてみる気になった。)

わが千中(千里中央の略)センター街には、100円ショップが4店もある。なかでもすごいのは、ドラッグストアに100円ショップ併設する「ダイコク」である。(消費税が8%にアップされた)いまなお消費税込みの100円売りを続けている。さらに、90円売りの特売日が月に2回もある。税別の100円ショップ(「ダイソー」など)とくらべると、18円も安いということになるのだから、当日はことのほか盛況で、大量に買い込む客が多数いる。

100円ショップには、日用品・雑貨、事務用品・文房具、食品・調味料のほかに、嗜好品や菓子類なども豊富に並べられている。高が100円のお菓子など買うに値しないだろうという先入観をもっていた私が、あれこれとお菓子を買うようになったのは、リタイアしてタバコをやめ、パソコン作業に熱中するようになって、つまみ食いするのが癖になってからのことである。

お菓子といえば、子どものおやつ≠ニいう認識であったが、ここ数年にわたって、試食も兼ねていろいろな菓子――煎餅・おかき・あられなどの米菓、ビスケット菓子、チョコレート菓子、飴やキャラメル、・・・を口にしてきた。(歳も歳だから健康にはよくないかもしれない。)初めて口にした菓子も多数ある。根強い人気があるという菓子のことも知った。昔なつかしい菓子やキャッチコピーで名を馳せた菓子もあった。いったん口にすると、やめられない・とまらない菓子もあった。噛む力の衰えを防止するによいだろうと、芋けんぴや粟おこしもよく買う。
        *
物色していて、「玄米(南国製菓)」というポン菓子を見つけたときは、昔なつかしく、幼少年当時のようにわくわくした気持ちになった。わが郷里(香川県西部)では、「おいり」、あるいは「ポンいり」と呼ぶ人もいた。
ポン菓子は、定番の菓子として子どもに人気があった。1960年代頃までは、ポン菓子をつくってくれる業者が地区にやってきていた。それは、専用の圧力釜が必要であること、材料の米は当時配給制度で統制されていたこと(配給制度が廃止されたのは1981年)、出来立てのほうが香ばしいことなどの理由からである。業者が、子どもが集まる広場などにやってきて、専用の圧力釜を設置して、火を熾して客を待ちかまえていると、子どもは親にせがんで自宅の米を2合とか3合持ち出してきて、作ってもらうわけである。

ポン風物詩.jpg

添付した写真は、巡回業者がポン菓子をつくっている風景で、1960年代後半に撮影した。製造には回転式の圧力釜を使う。原料となる米を釜に入れフタをし、回転させながら加熱する。釜の中の圧力(10気圧程度)から出来具合を見計らって、網籠をセットして、圧力釜の(バルブをハンマーで叩いて)フタを解放すると、(加圧水蒸気の)白煙と激しい爆裂音をともないながら釜から膨化した米が勢いよく網篭にはじけ出る。その音に由来して、「ポン菓子」(または「ドン菓子」)と呼ばれるようになったらしい。数倍膨らんだ膨化米に煮立てた砂糖蜜を絡めて甘味をつける。サクサクと軽い食感の菓子となる。

●わが郷里でいうところの「おいり」とは、(米のものもあるが、)小さいサイコロ状のあられからつくられるポン菓子である。大きさは直径1cmくらいで、桃色、緑、白、ブルー、オレンジ色などに着色されて混ぜられているからカラフルである。外殻は薄く中は空洞で、口に入れると殻はすぐに溶ける。専門の業者に頼んでつくってもらう。
呼び名の「おいり」とは、嫁入りの「入り」に因んでいる。または、「煎る(炒る)」ことによってつくるからともいう。かっての郷里では、結婚式当日、(花嫁姿に着飾った)お嫁さんがお婿さんの家にやってくる嫁入りのとき、近所の主婦連中や子どもたちが、花嫁をひとめ見ようと集まってきて歓迎するわけであるが、このとき、お祝いとして「おいり」をみんなに配るのである。子どもは、「おいり」をもらうのがたのしみなのだ。郷里の良きしきたり(風習)であった、とおもう。現在の結婚式は、ホテルや神社の式場・宴会場で行われるから、引き出物に加えられているかもしれない。



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2015年12月31日

謹賀新年・・・小足

謹賀新年


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2015年12月30日

H27昆虫記E・タイワントビナナフシ・・・末光

今年も散歩コースの林縁で、タイワントビナナフシをいつも通り観察することができました。でも数は少なくて、いくら探しても二ケタに届きませんでした。そのかわりいつもより早い時期から見ることができ、脱皮の様子も二度見ることができたのはいままでにないことでした。
まずは7月後半に、今年はじめて見たときの画像です。今までこんなに早く見かけたことも、ましてや羽の生えてない時期の個体を見たこともありませんでした。
タイトビ@撮影日時 2015/07/23 16:24:19

そして次は、脱皮直後の画像です。この時期に脱皮するのをはじめて目にしました。よく見てないし、うまく撮れてないので羽があるのか、ないのかが不明です。残念ながら・・・。
タイトビA撮影日時 2015/08/01 8:22:39

その後はいつも見なれている成虫になり、たまたま通りかかったとき、ゴソゴソ動いていたのを撮った画像が下のものです。
タイトビB タイトビC
撮影日時 左:2015/08/26 16:45:10  右:08/26 16:45:18

いちばん上の最初の画像を見て気づかれたかと思いますが、左側の前肢の付け根が少し変てこな形をしています。すぐ上の左の画像では、右側の前肢のそれがかなりよくわかりますが、その抉られた形はタイワントビナナフシの頭部に、ピッタリ合うような形状になっているようです。
このことは、これを投稿するために選んだ画像を整理していて、自分なりに気がつき納得し、なるほどなと思った次第です。
最後の画像は、二度目に見た脱皮直後のものです。
タイトビD撮影日時 2015/10/11 8:45:01

撮り置き画像によると、今年最後に見たタイワントビナナフシは11月7日となっています。そうするとその一か月前に、多分最後の脱皮をしたことになります。
今まで数年にわたりタイワントビナナフシを見てきましたが、こんなに長くそして少なくとも二度脱皮をするのを観察できたのは初めてでした。

以上で「H27昆虫記」も最終回とします。いろんな昆虫と出会い、何かと知見を広められた今年一年でした。来年もまた、野外観察で何か新しい体験のできる年になればと思っています。

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2015年12月25日

イチョウ・私的一年の記録・・・末光

今年の春先イチョウについて投稿しましたが、やはり気になるので自分なりに、できるかぎりの追っかけをしてみました。あくまでも自分勝手な、表面的な記録ですが、その全貌を投稿します。
幸い近場にイチョウの木があり、なんとか雌木の受粉からギンナンになるまでを見とどけることができました。それをたどりたいと思います。最初は雌花と雄花です。
イチョウ@♀ イチョウA♂
撮影日時 左:2015/04/11 8:56:48  右:04/16 12:42:37

団地の記念樹の一本が雌木だったので、幸運にもなんとかその生育を追うことができました。左の画像がその雌花のできはじめです。右のは雄花ですが、近場では見つからずたまたま行った広島の植物公園で、運よく見つけることができたのでそのときに撮ったものです。
つぎは雌花が成長してゆく様子です。
イチョウB♀ イチョウC♀
撮影日時 左:2015/04/24 16:27:54 右:06/13 15:36:40

左の画像で雌花の先端が尖っているところがあります。この部分に雄花の花粉を受けるべく、液体が出てきて飛んでくる雄花の花粉を捉えます。
右の画像で、受粉後に果実として順調に育っている様子がうかがえます。受粉後は下向きに垂れ下がりますが、受粉前の段階では上向きで受粉の確率が増すようになっています。
最後はギンナンの形になる様子です。
イチョウD♀ イチョウE♀
撮影日時 左:2015/08/18 8:51:38  右:10/10 8:50:12

左の画像は、夏になって卵と精子が育ちつつある時期だと思われます。そして右のように秋になり、卵と精子が合体しいわゆるギンナンが形作られた状態になりました。

以上大雑把なそして自己流の追っかけ記録でした。なおこの雌木は、樹高2m50cmほど目通し直径が5cm足らずで、よくぞこれだけの画像を撮らせてくれたものだとありがたく思っています。普通こんな若木では、こんなギンナンはできないだろうと思っていました。(不確かな記憶ですが、植えられて10年ちょっとしか経ってないはずなんですが・・・)

そして仕上げはギンナンの画像です。これはいつもの公園で頂いて来たものです。ことしは生り年だったのか、たくさん落ちていたのでギンナン拾いをし、自己流の簡単なやり方で果肉を取り除きました。もちろん電子レンジでチンしておいしくいただくことができました。 イチョウF
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2015年12月24日

公害問題の閑話・・・小足

■ はじめに
(産業革命や高度経済成長の負の遺産といわれる公害問題を話題にする。)
染色工場は、加工織布の洗浄と乾燥に大量の水と蒸気を使う。ボイラーの重油燃焼排ガスを煙突から大気中に放出し、廃液排水を河川に流していることから、現在ではどこの工場も、排煙排ガスと工場排水をクリーンにする(公害防止)装置を設置している。

かって私が勤めていた会社の染色工場は、京阪枚方市駅前に近い旧国道1号線沿いにあった(現在は関西医大枚方病院)。高い煙突から出す排煙や淀川に流す工場排水に対する市民の目はきびしかったことから、はやくから排煙と廃液排水をクリーンにする独自の処理装置を自社開発して設置していた。

高度経済成長時代も昭和40年代になると、日本の公害問題も深刻になって法規制されるようになってきた。(第一次環境立法の時代と呼ばれている。)折も折、新規事業への展開を模索していた当社に、自社工場に設置していた処理装置に引き合いが舞い込んできたのである。当社の決断ははやかった。稼働実績とそのノウハウの蓄積が商売になるということ確信して、エンジニヤリング事業部を発足させた。好機にめぐまれて、事業の最盛期には、公害処理プラントの納入実績でトップクラスに入っていた。――という(自慢話的な)背景を公表して、おこがましくも公害問題の解説(閑話)をこころみる。
(なお、上記の枚方工場は徳島県・阿南市の辰己工業団地へ移転(1994年)。当団地には、LEDで有名を馳せた日亜化学工業と同級生が経営する山本鉄工の工場がある。)
        *
■ 地球規模に拡大した排ガス(公害)問題
11月30日から12月13日にわたって、パリで開かれていた国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)は、新たな枠組みとして法的拘束力がある「パリ協定」を採択した。
世界各国が温暖化の危機感を共有し、今世紀後半に世界の温室効果ガス排出量を実質的にゼロにすることとし、すべての国に削減目標の作成と報告を義務づけ、5年ごとに点検・更新する。産業革命前からの気温上昇を1.5度(℃)以下に抑える努力をすることを目指す、となった。
        *
温室効果ガスとは、主として二酸化炭素(CO2)のことである。その多くは、化石燃料の石炭を燃焼させることから発生している。なかでも石炭火力は、多くの国で依然としてベース電源として利用されていて、大量のCO2を発生させ続けている。異常気象や大災害を引き起こす地球温暖化問題を考えれば、石炭火力を廃止することは望ましいことである。

G7各国や米国では石炭火力の廃止の方針を打ち出しているようだが、日本は東日本大震災以降、多くの原発が停止し、火力発電がフル稼働したことによりCO2排出量が大きく増加した。電気料金も(20%以上)上昇してきた中で、国内外で新たな石炭火力発電所の建設を予定しており、ジレンマに追い込まれている。
        *
エネルギー問題をふり返ると、1960年前後から、中東において石油が大量・安価に生産されるようになり、日本を初め多くの国で石炭から石油への転換が行われた(エネルギー革命)。ところが、1973年秋の第1次石油ショック(オペックのカルテル)で、石油の価格は一挙に4倍に高騰してエネルギー危機に見舞われた。もともと地政学的利点をもつ石炭の相対的な価格競争力が回復して、その消費は増大に転じた。
世界の石炭生産量は、データを参照すると、1973年の31億トンから2013年の78億トンと、2.5倍に増加し、世界の1次エネルギー消費の約1/3を占め、発電部門を中心に依然として大量に消費されている。 (つづく)

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2015年12月21日

三匹の「アカエグリコノハ」→三匹の「アカエグリバ」への訂正・お詫び・その後・・・末光

だいぶ前に「アミガサハゴロモ」を「アミメハゴロモ」と思いこみ、正しい名前「アミガサハゴロモ」に訂正するのに大恥をかいた記憶がよみがえってきました。それと同等かそれ以上の思い込みによる今回の訂正です。お騒がせして申し訳ありませんがよろしくお願いします。
「○○コノハ」という思い込みにより、正しい種名を見たにもかかわらず「アカエグリコノハ」と、早とちりしたのが前回の投稿となってしまいました。よく確かめれば「アカエグリバ」とちゃんと出ているのに、いまだに直らぬ悪い癖のようですが、ヒョットしてこの歳なので「??症」かも?
ということで前回の標題は“三匹の「アカエグリコノハ」”ではなく正しくは“三匹の「アカエグリバ」”でした。訂正させていただくとともにあらためてお詫び申し上げます。(これで「アミメハゴロモ」と「アカエグリコノハ」という二種類もの実在しない名前を、ネット上に掲載してしまったことになります。反省!)

さてその後の「アカエグリバ」ですが、投稿した夜に三匹のうち二匹が夜に明かりを求めて移動していました。最初はどこへ行ったのかわからず色々探しましたが、やはり暗くなってから活躍する、蛾の習性なのでしょう、結果として街灯の光が届く側にいました。一匹はロウバイのある部屋のレースのカーテンの所へ、もう一匹は廊下を横切って和室の障子の桟の所まで行っていました。いづれも屋外の街路灯の光がかすかにとどく場所でした。
下がそのときの画像です。真ん中のは夜移動しなかった一匹です。なおこれは掃除のとき最後に見つけた個体で、よく見たらすこし傷があり弱っていたらしく、撮った翌日残念ながらダウンしてしまいました。
アカエグリバC撮影日時 2015/12/19 13:01:15
アカエグリバD撮影日時 2015/12/19 13:01:34
アカエグリバE撮影日時 2015/12/19 13:01:54

その後も残った元気な二匹を見つけてはロウバイに戻しても、夜になるといずこともなくアチコチに移動するので、この蛾の習性も一応わかったつもりにし、もう外へ放してやろうと思っています。

以上ですが、ググるのは「アカエグリバ」でした。時間をムダにしたご迷惑を陳謝します。
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2015年12月18日

三匹の「アカエグリコノハ」・・・末光

先日天気が持ち直したので、墓そうじに行きました。そのとき供えたササキ(正式名「ヒサカキ」)や花を片付けて、ゴミ用の袋に入れていたらぽろっと地面に落ちて、ジッとしているものがいました。以前アケビコノハを見たことが思い出され、「○○コノハ」だろうと思いました。すべてのササキと花を片付ける間に、この虫が三匹出てきました。もう何十年もおなじことをしてきましたが、こんなのは初めての出来事です。想うに暖冬(温暖化!?)によることなのか、というのが頭をよぎりました。
又とないことなので三匹を、小さなビニール袋に入れわが家に持ち帰り、ロウバイの枝を切ったのにとまらせています。冬なのでこうなのか分かりませんが、移動中も今も置かれたところでジッと静かにしています。

もちろん持ち帰ってすぐ種名を調べたら「アカエグリコノハ」だと判明しました。年末が近づきお忙しいでしょうが、よかったら「アカエグリコノハ」でググって見てください。
それでは下に三匹の画像を添付しておきます。
アカエグリコノハ@撮影日時 2015/12/18 12:40:38
アカエグリコノハA撮影日時 2015/12/18 12:41:17
アカエグリコノハB撮影日時 2015/12/18 12:41:47

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2015年12月15日

空・・・小足

今年の日本の世相や人気を博した話題を漢字1文字で表すとすれば、「安」「爆」「変」・・・があげられているが、エンジニアの視点からいえば、空・宇宙関係のビッグニュース、偉業でにぎわったことから、「空(そら)」をあげたい。(以下、私なりの解説であって、新味はない。)

(1) 小型ジェット機「ホンダジェット」と「MRJ」の開発
まずは飛行機。小型ビジネスジェット機の「ホンダジェット」と国産小型ジェット旅客機「MRJ」の話題があった。●ホンダジェットは、4月下旬に日本で一般向けに初公開され、デモンストレーション飛行が行われたが、12月10日、米国で売るための認可(型式証明)が米当局(FAA)からおり、年末に1号機を最初の顧客に引き渡す手はずとなった。ホンダ創始者の夢は、開発を始めてから29年、いよいよ商売にこぎつけた。●一方の三菱重工の国産小型ジェット旅客機MRJは、延期に延期を重ねて気をもませていたが、11月11日に初飛行をはたした。「離陸上昇も着陸時も、機体の応答が非常に安定しており、これまで操縦した中でトップクラス」と、(安村機長は)高く評価した。航空各社に納入するには、国の航空当局による型式証明を得る高いハードルを超えなければならない。最初の顧客への納入時期は2017年4〜6月を予定しているという。
「ホンダジェット」も「MRJ」も、その飛ぶ姿は優雅でほれぼれしたが、商売で成功してもらいたい。

●訪日客が急増して、爆買で潤う
2013年の年の訪日外国人旅行者数は1000万人の大台を超え、2014年は1341万人、2015年は、10月末で1631万人と、前年同期比48%の増加で、年末には1900万人を超えると予想されている。空港では入国審査が追いつかないほどの盛況である。訪日客の急増の理由として、ビザの発給要件和や円安に加え、日中関係の風向きが変わったことなどがあげられている。また格安航空会社(LCC)の貢献もある。
(日本の空港は国際競争に太刀打ちできないともいわれたが)、小型ジェット旅客機MRJが乗客を乗せて飛び立つころは、ラグビWC2019と東京五輪2020も開催されることだし、地方空港も利用客が増えて様変わりするのではないだろうか。期待したい。

(2) 宇宙関係の話題。
宇宙飛行士・油井(亀美也)さん、国産ロケット「HUA」、国際宇宙ステーション補給機「こうのとり」、金星探査衛星「あかつき」などの偉業の数々。
●国際宇宙ステーション補給機「こうのとり」の打ち上げと、宇宙飛行士・油井さんの活躍
7月23日から国際宇宙ステーションISSに(約5ヵ月間)滞在していた宇宙飛行士・油井さんが、ISSから地球に無事帰還した(12月11日)。彼の重要なミッションの一つは、地上局の若田光一さんと共同して、ロボットアームを使って、接近してくる補給機「こうのとり」を捕捉することであった。米国やロシアの無人補給機が事故を起こし、ISSへの補給に失敗していたときだったから、ここで日本も失敗してしまったら、ISS滞在の宇宙飛行士の生命は風前の灯火になってしまうリスクがあった。そんな中で、日本は大役を見事にやり遂げたのだった(8月19日)。「こうのとり」の成功は世界から大きな注目を集めた。

●金星探査衛星「あかつき」の5年越しの再挑戦(金星周回軌道に再投入)
宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、探査機「あかつき」の金星周回軌道への再投入に成功したと発表(12月7日)。その証拠ともいえる、探査機が地球に送ってきた金星の鮮明な画像を確認することができた。来年の4月頃から、金星の大気の謎を解明する本格的な観測が始まる。
ふり返れば、2010年5月に打ち上げられた日本初の金星探査機「あかつき」は、太陽周回軌道から金星周回軌道に入ることに失敗し、損傷してそのまま太陽の周りを回っていたのだった。

 (JAXAは、「あかつき」の再挑戦の機会を探っていた。)「あかつき」の金星周回軌道への再投入、つまり4個の姿勢制御用エンジン噴射の時刻(年月日時分秒)と継続時間を決めるためには、無数ともいえるケースを計算しなければならない。さいわい最適値が見つかったとはいえ、メイン推進エンジンは損傷してしまっていて使えないので、推力の小さい姿勢制御用エンジンのみで再投入を試みなければならない上、太陽や宇宙線に5年間も曝されて機体や機器の劣化もあるから、徒労に終わるやも知れないのであった。
でも、5年越しの再挑戦で、「あかつき」は奇跡的な復活をはたした。プロジェクトチームの逆境にあっても諦めない根性の勝利であった。(2010年6月の)小惑星探査機「はやぶさ」帰還の感動物語とだぶった。

●ノーベルの受賞、物理賞は梶田隆章氏、医学・生理学賞は大村智氏
宇宙線が大気中の原子核と反応し、素粒子ニュートリノが生じて、地上に降り注いでいる。今年のノーベル物理学賞は、ニュートリノに質量があることを発見した東大教授(肩書き省略)の梶田隆章氏とクイーンズ大のアーサー・マクドナルド名誉教授に授与された。素粒子物理学の基本法則を書き換えた業績が評価された。(日本のノーベル賞受賞者数は24人。物理学賞は昨年の赤崎勇・天野浩、中村修二の3氏に次いで2年連続の受賞)。観測装置のスーパカミオカンデは建設費に200億円もかかったというから、紙と鉛筆でノーベル賞をもらった湯川秀樹氏のケースとは大違いである。

(3) 月と金星の近接写真
金星探査衛星「あかつき」のことは記憶にもなかった2015年7月20日(旧暦6月5日)の日没、西の空に(陰暦の)五日月と金星と木星が輝いていました。絶好の夕焼け日和で、午後7時過ぎから9時頃まで、近接している月と金星と木星の運行を眺めながら撮りました。写真では、金星と木星は点景の点にしか写りませんので、矢印で示しました。

12月9日(旧暦10月28日)の日の出を見るために出かけたのですが、午前6時半ごろの薄明かりの東の空を眺めると、三日月とは反対称のような月(新月2日前の月)が架かっているじゃありませんか、これまで見たこともなかったのでおどろきました。よく見ると、月の右斜め上の近くに金星も輝いていました。添付した下の写真に写っているのは月のみで、金星は写真右端からはみ出しました。(月と金星が同時に写っている写真もありますが、見栄えがよくないのではぶきました。)

月金木k2.jpg



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2015年12月12日

H27昆虫記D・ヤマトシリアゲ・・・末光

毎年お目にかかるこの虫も、散歩の楽しみのひとつになっています。というのがこの虫は春と秋に見ることができるのですが、季節によってその色合いが少し異なっているのが特徴で、それが興味深いところです。
まずは春型のヤマトシリアゲの画像です。全体に黒っぽいのがこの時期の特徴で、左が♀で右のが♂です。
ヤマト@ ヤマトA
撮影日時 左:2015/05/21 8:36:56  右:05/23 8:33:51

つぎに秋型のヤマトシリアゲの画像ですが、全体がいわゆる鼈甲色になっています。同じく左は♀、右が♂です。この秋型のヤマトシリアゲは、この色の特徴から別名「ベッコウシリアゲ」とよばれることがあります。
ベッコウ@ ベッコウA
撮影日時 左:2015/09/28 8:58:51  右:10/06 8:45:17

以上ですが、見てのとおり簡単に♂・♀の識別ができる虫です。でも季節によりこれだけ色合いが変化する虫も珍しいのではないかと思います。
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2015年12月11日

12月8日の朝・・・末光 

新聞を読んでいて、そうかあ〜あれから74年目なんだ、と気付いた自分でした。まあ気付くだけ良いかと思いながら、その日は自分が生まれて満一歳になる少し前だったんだということに、あらためて思い至りました。

そんな日の朝の散歩で見かけた、二種類の種子についての投稿です。
散歩コースである公共施設の芝生広場をよくよく見ながら歩いたら、こんなにあったのかと思うくらい見つけることができました。それは先日から気にしていた、テイカカズラの種子を10個以上、ガガイモの種子は1個だけでしたが。
それの画像が次のものです。
種髪@ 種髪A
撮影日時 左:2015/12/08 8:29:38  右:12/08 8:32:25

この画像から分かることは、飛んできた種髪が着地してのち、夜露に濡れるか霜にあったたかして、このように芝生とかにからまってその位置にとどまるようです。これがそこでどうなるのかと思っていたら・・・
つぎの日、9日の夕方の散歩でその結果が判明しました。つぎの画像です。
分離@ 分離A
撮影日時 左:2015/12/09 16:12:25  右:12/09 16:13:33

この日は小春日和の上天気で、気温も14.5℃で湿度も低かったのでこうなったのか、種子と種髪が見事に分離していました。こういう状態になって条件が重なったら、その位置で種子が定着・発芽することになるのでしょう。
たまたまですが、8日と9日の二日間でこのような様子が確認できたのは幸運でした。
なお画像はいずれも、左側が「テイカカズラ」、右のは「ガガイモ」です。
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2015年12月03日

ガガイモ・種髪・・・末光

ひさしぶりに芦田川左岸を歩いていたら、ガガイモの果実があるのを見つけました。どうなってるかと近づいたら、種子がびっしり詰まっていて、風で飛んで行ってしまう準備万端の種髪がキラキラしていました。さっそく撮ったのが下の画像です。
ガガイモ種髪撮影日時 2015/12/03 8:58:18

種髪と言えば去年だったか、テイカカズラではじめて知った言葉でした。いろいろ知ってみると、ガガイモの種髪のほうがよく知られているのがわかりました。それはどうも日本神話にガガイモの舟の話があるからだろうと思われます。
それはやはりテイカカズラの伝説より、神話にでてくるガガイモのほうが長い時間を経てきている分、その積み重ねによるようです。

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2015年11月30日

先日撮ってきた写真・・・小足

先日、エキスポランド跡地に新しくエキスポシティがオープンしましたので様子見に行ってきました。ついでに、太陽の塔と月の夜景を撮ろうと目論んでいたのですが、なかなか月が出ませんので、時間をもてあまして帰ってきました。11月27日は、十六夜の月でした。
今度は、朝日に映える太陽の塔を撮影に行こうと思っています。撮れたら年賀状の背景に用いるつもりにしています。

太陽の塔ad.jpg

翌日の夕刻は晴れていたので、高速道路に交差する橋の上から、東方の月の出の夜景
の写真を撮ってきました。

夜景の月の撮影はむつかしいものです。感度を上げて風景をきれいに写し込もうとす
ると、月や外灯やヘッドライトがハレーションを起こすのです。また老眼メガネをか
けたりはずしたりで、敏捷な動作ができません。



(投稿した写真が目の保養にでもなれば幸いです。)
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2015年11月29日

H27昆虫記C・ギンヤンマ合体・・・末光

トンボと言えばギンヤンマが小さいころからの定番でしたが、そのギンヤンマも年に何回見るかというほどの、稀少種になってしまいました。
ことしもオスが飛んでいるのと、合体したのをたまに見ることがありましたが、メスを単独で見ることもなく、夏が過ぎてゆきました。
ところが9月になって突然、連結産卵の様子を団地下の大池で連続して見るようになり、嬉しいのは嬉しかったのですが、どうなってるのか不思議な気がしました。この歳になってちょっと異変とも言える、こんなことは初めてでした。
手帳の記録によると9月1日から見はじめて、(途中見れない日もありましたが)9月23日まで見続けていました。ほとんどの日が一組ないし二・三組でしたが、9月5日だけはどうしたことか七〜八組もいて、こんなの初めて!?という状態でした。
もちろん嬉しくて、見るたびに撮った画像が色々あります。でも時間帯も夕方で、コンデジも最大倍率だったので、あまりパッとした画像はありませんが、それなりの情景が出ているものを添付します。

ヤンマ合体@ ヤンマ合体A
撮影日時 左:2015/09/03 16:10:45  右:09/04 16:33:39
ヤンマ合体B ヤンマ合体C
撮影日時 左:2015/09/05 16:20:16  右:09/15 16:14:19

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